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2014年04月05日

「信じること、思うこと」について、改めて考えてみる

しばらく前の話になるが、愛知・江南市にある永正寺のお坊さんである中村建岳さんのお話を拝聴してきた。
題して「宗教の仕組みと危険性」。

こちらのブログ(中村建岳さんのブログ)に、要旨が記事化されております

メジャー・新興を問わず、宗教が危険になるのは「信じて上手くいかなかったとき、さらに強く信じることを勧められる」ときだと中村さんは言う。
危険な宗教は、布施し(金を出し)、教えを広め(勧誘し)、迫害に屈しない(身近な人の忠告に耳を貸さない)、そういった信仰の証を立てることを要求する。
そして、強く信じることで、自分が信じるもの以外を否定する『他者否定』、そして自分が信じるものとそぐわない現実を認めず無視する『現実無視』という、2つの問題が発生する…という話だった。

うん、どこかで聞いた様な、体験したような話ですなぁ。

現代の日本では、大半の人々は信仰する宗教を持たず、信仰という行為にどこか精神的に距離を置いている。
その一方で、少なからぬ数の人々が、信じること、強く思うことで、120%の力が引き出され、夢や目標が達成できる、闘争に打ち勝つことができる…と、心のどこかで思っている。
神を戴く宗教こそ広く普及していないが、「精神論」という名の宗教は、その賛否はさておき、多くの人に信じられている(あるいは、反発の対象となっている)。

そう、僕らは、宗教はキライだけど、精神論は何だかんだで大好きなのだ(苦笑)

「思考は現実化する」に代表される成功法則とか、「引き寄せの法則」のような現世利益系のスピリチュアルとかは言うに及ばず、漫画やアニメやドラマなどの娯楽作品とかに至るまで、「強く思うことでうまくいく」という触れ込みに、フラフラと惹かれてしまう。

強い思いって、熱くて、力強くて、何だか不可能を可能にするような気がする。
実際、強い思いをもとに事を成した人の話(リアル・創作問わず)って、すっごくドラマチックだ。

満身創痍でボロボロの死にかけの身体で、第六感を超えた第七感に目覚め、奇跡的で圧倒的な宇宙パワーで、さっきまで一方的にやられてたはずの強大な敵を打ち倒す! みたいな(苦笑)

僕らの人生は、思い通りに行かないことが多い。自分の力が及ばなかったり、何かに・誰かに邪魔されたり、まぁ色々な理由で、思った通りにはいかない。
そもそも、我々の思い自体、日々の生活のドタバタの中で揺らいだり移ろったりする。

だからこそ「強い思いを以て事を成す」ことに、僕らは惹かれるのだろう。

しかし、強く思えばそれだけでうまくいくほど、現実は甘くない。
むしろ、思えば思うほど、それぞれの思いの正しさを主張するあまり、しなくてもいい争いを引き起こしたり、思いが高じて空回りしたり、目の前の事実を冷静に振り返り検証することができなくなったり、してしまうことが多いのだ。

こういう「精神偏重主義」の弊害って、ホント、ザインとか宗教とかに限ったことじゃない。
ビジネスとか、スピリチュアルとか、果ては日々の生活に至るまで、自覚のないままに「うまくいかないのは、気持ちが足りないからだ!」と思ってしまってる人、けっこう多いのではなかろうか。

例えば「寝坊するのは、起きようとする気持ちが足りないからだ!」とか「勉強に身が入らないのは、やる気がないからだ!」とか。

これ、ごくごく当たり前なことを言ってるようだけど、実際は、前者の場合「早く寝ていない」「目覚ましをかけ忘れた」とか、後者の場合「疲労で集中できない」「勉強以外の目先の楽しみに気をとられている」とか、そういった明確な理由がある。
それを安易に精神論で片付けようとすると、現実を把握して対処することが、思いっきり疎かになってしまうわけだ。

「早寝する」「目覚ましを2つセットする」「おめざを用意する」といった対処法をとらずして「起きる気がない」で済ませるのって、すっごく滑稽で愚かなことだと思う。
その一方で、精神論って、一見まっとうなことを言ってるように思えてしまう。そこがとても怖い。

まぁ確かに、何かを信じること、強く思うことは、時として大きな力をもたらす。
しかし、それって、意図して信じたり思ったりする、そういう種類のものではないんだよね。

例えるなら、特に好きでも嫌いでもない、接点があるわけでもない異性を「私はこの人を好きになる、好きになる、好きになる!」と強く思ってみても、ちっとも好きにならないのと同じことだ。
そんなことをしても、心はときめかないし、ドキドキもしないし、この人を大切にしたいという気持ちにもならないもんね。

信じようとする、意識的に強く思う、そういう意図的な行為を超えたところに「信じること」「思うこと」の力と素晴らしさがあるんじゃないかな、と僕は思う。

posted by Riot at 22:35| Comment(4) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月09日

うんざりするほど、やる。

うんざりするほど、やる。

いわゆる成功者と呼ばれてる人は、うんざりするほど行動と反省を積み重ね、社会的な成功を勝ち取ってきた。
僕らの日々の仕事でも、うんざりするほど仕事を積み重ねることで、スキルアップしていく。
受験勉強なんかでも、うんざりするほどの学習量をこなすことで、難関大学に合格できる。

「うんざりするほど、何かをやる」ことで、何かを得られる…というのは、この世の真理…なのかもしれない。

それを踏まえて、僕らの卑近な日常生活を思い返してみると…

僕らの日常は、うんざりすることで満ち溢れている。
日々の出来事にうんざりし、聞き分けのない他人にうんざりし、思うようにいかない結果にうんざりする。

確かに色々とうんざりするんだけど、それが高じたときに、人は「このままじゃいけない」と本気で思うようになって、パラダイムシフトが起こる。
今までの自分をかなぐり捨てて(手放して)、これまでとは別の考え方や方法を取り入れようとするんだよね。

そう考えてみると、うんざりするっていうのも、そう悪いことばかりではないようだ。
うんざりは、「今のままではいけない(楽しくない、心地良くない)」って本気で思う原動力であり、そこに至るまでの大切なステップであるから。

頭と精神が色々と捻じ曲がってる風なアンチクショウも、そんな自分自身に心底うんざりするまでは、きっと「本人が心底うんざりするまで、そういう人格でい続ける」修行と努力の真っ最中なのだ。

色々とアレな馬鹿野郎も、成功者も、受験生も、日々の仕事に臨む我々も、社会的な評価は置いといて

「うんざりするほど、何かをやっている」

点においては等しく立派で、ある意味ストイックですらある。

そう考えると、腹が立って仕方がない馬鹿野郎も、立派な修行僧の如く見えてくるから不思議だ(^^;

そんなわけで…
今これから、何を、うんざりするほどやりましょうか?^^

※追記
この文章は、小島露観やザインがこれまでにしてきた「行為」を許そう…という意図で書いたものではありません。
それは許さない、絶対に。
だからこそ、僕はこのブログやサイトを続けているのです。
あらぬ誤解を招く可能性があると思い、念のために追記いたしました。

posted by Riot at 21:17| Comment(7) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

例外に目を向け、踏まえることの意味と大切さ

ちょいと厳しい内容になるけど…
木坂健宣さんのメルマガで、ウンウン頷ける記述があったので引用してみる。

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1.「脱バカ・脱大衆」するための第一歩は、個人的な好き嫌いと
客観的な価値・評価を分離する訓練です。

2.そして次に、客観的に対象を「理解」する努力を徹底して
行うこと。

3.そうすることで自分の中に「価値の基準」が作られてきます。
これは「価値観」というものから主観性を抜き取っていった、
判断の尺度になる重要な道具です。

4.これができてきて初めて、自分の人生を自分で決断して、
つまり自分として生きていくことができるようになります。

5.それができない「大衆性の強い人」は、総じて人生の満足度や
幸福度が低い傾向にあるので、是非その負のスパイラルから脱して、
自分が望む人生を生きられるようになりましょう。


-----------------------------------------------------------------

えっと、つまるところ…
いわゆる「他人から見てバカに見える人」(かつてザインにハマッていた僕らとか、そうやね)っていうのは、個人的な好悪の感情と客観的な価値・評価が一緒くたになっている。

だから、自分の信じるものや好きなものに執着し、嫌いなものを叩きたがり、客観的な事実になど目もくれなくなってしまうんだね。

自分の好き嫌いだけで物事を判断し意見を言うから、他人の話を聞けずぶつかり合い、傷つけたり傷つけられたりする。
自分の思ってることだけに意識を向けているから、実際のところどうなのかに着目できず、自意識を過剰に膨らませたり、不安とか怒りとかを深めたりしていく。
客観的な事実を確認することを拒み、怠るから、人から騙される。

さらに、それがあまりにも度を超すと、人語を使い一定以上の知的レベルを持ち人語を解しながらも、人の話を撥ね付け、馬耳東風で聞き流し、右から左に受け流し、客観的事実よりも気分や感情を圧倒的に重んじて生き、知的交流がえらく困難な「エモーショナルモンスター」になってしまう、と。(ロカンさんみたいにね)

僕は常々「例外の存在を頭に置こう、例外について考えよう」と言っているのだけれど、言い換えれば

「自分の主観を離れて、客観的に対象を観察・理解しようよ」

ということだ。

一部の人がカンチガイしてるようだけど「自分の主義に反する例外を認め、受け入れよう」(=みんな違って、みんなイイ♪)という文脈ではないんだね、

自分の主観に固執せず、

様々な立場の主観や客観的事実の集合体である「現実」を受け入れ、

それを踏まえた上で、
自分の意見やモノサシを自分の中に育てていこう、

ということなんだ。

まっ、簡単ではないけれど。
僕もその道程の最中だけれど。

「自分の中の主観と客観」を注意深く意識して普段の自身の言動をチェックしてみたり、主観を離れて対象や状況を観察するよう心がける価値は、大いにあると思う。




posted by Riot at 00:00| Comment(8) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月16日

小島露観の「動機」〜「ザイン後の自分たち」を考える

先日、ある元会員さんとの間で「小島露観は、革命を本気で志していたのか?」「そもそも、小島を突き動かす動機は何だったのか?」という話になり、ちょっとした議論をした。

かつて小島は「昔、野山を散策して触れ合った自然が壊されることに怒りをもった」とか「悪平等の民主主義が許せない」とか「大和魂を復興させる」など、革命を志した動機を声高に語っていた。小島の口からそのように熱く語られた動機を信じ心惹かれて、自分たちはザインに入ってしまった、だから自分やザインを見つめなおすために、小島の真の動機について考えてみたい、という趣旨だった。

小島が革命を志した動機は、小島自身が語ってきたものだけでなく、小島を観察して推理できるものも含めると、様々なものが考えられる。

・民の幸せを考えているようで考えられていない、民主主義の衆愚政治的なペテンさへの怒り。
・自らが駆け回った野山が切り開かれ、ゴルフ場になっていく、そんな自然破壊への怒り。
・優秀な兄をはじめとする周囲への劣等感と、「認められたい」という承認欲求。
・小島の精神疾患の疑い(あくまで疑いの域を出ない)。

なるほど、どれももっともだと思える視点だ。
いっそのこと、全て正解にしてもいいくらいだ。

しかし、ちょっと見方を変えてみると…

民主主義に対する反論をやりたければ政治活動をすればいわけだし、自然破壊に腹を立てるならグリーンピースみたいな活動をやればいい。
誰かに認めてほしいからといって皆がこんなことをするわけじゃないし、精神疾患になった人が皆「実質上のカルト教祖」になるわけじゃない。

つまり、僕が何が言いたいかというと、このような形で語られる動機というのは突き詰めてみると「不確かなもの」だということだ。
せいぜい「引き金」「きっかけ」「背景」程度のものであって、それが本当に動機かどうかは、確かめる術もない。

人の心を突き動かし行動に駆り立てるものって、ロジカルな動機じゃなくて、ハッキリと言葉にできない衝動ではないだろうか。

例えば恋愛。
僕らが誰かを好きになったとき、そこに「明確な動機」なんて存在しない。
「この人いいな♪」と思うきっかけとか、「この人と思いが通じ合えるな」って感じる背景とかがあって「好き」という感情が生まれるのは確かだけど、それらは「好きになる動機」とは違うものだ。
人を好きになる上で「好きになるための理由」なんて存在しない。好きだから好きなんだ、何か文句あるか、とまぁ、そんな感じだ(苦笑)

小島露観の「革命」も、突き詰めれば、それと一緒なのではないか。

革命したいから俺は革命するんだ。
やりたいから剣を振り、パワーストーンを売り、魔法の儀式をやるんだ。
何か文句あるか?

と、こんなところだろう(苦笑)

確かに小島自身がそこに至るきっかけは色々あったかもしれないが、革命を志すこと自体には明確な理由など存在しない。
僕らが誰かを好きになる気持ちに理由がないのと同じく。

その理由なき衝動に突き動かされるように、小島は街宣をぶち、核石を売り、なんちゃって剣法でセカイに日々立ち向かい、エロ儀式を開催し、日々思ったことを「神文学用語集」として垂れ流してきたのだ。

…となると、考えるべきはきっと「小島の動機」じゃない。
動機というものが「言語化できない衝動」である以上、いくらそれについて考えても答えなんて出ない。
言葉として語られる動機なんて、あくまでも「後付けの想像や理屈」でしかないのだ。

少し厳しいことを言うけれど…
不幸にもザインに関わってしまった元会員が「小島の動機を考えたい」と思うとき、考えるべきはきっと、小島の動機そのものではなく、「小島の動機を知ろうと思う自分自身」なのだと思う。

僕ら元会員の多くは、当時は「小島が正しい」と心から信じ、ザインに関わってきた。
だからこそ、それが裏切られたことへの心の整理をつけることは難しい。

それ故に僕らは、小島の動機を知りたい、知って自分を納得させたい、と、そういう思いが涌いてくるんだよね。

他にも…

小島やザインに怒りを覚えながらそれを表に出さず、淡々と日々を生きる人。
小島や幹部への怒りを隠さず、ザインを熱心にバッシングする人。
当時のザインの理想の正しさを、信じたいと思う人。
騙されたと頭では分かっていても「騙された」とは思いたくない人。

色んな人がいるけど、それぞれに「信じてたものに裏切られた痛み」や「自分が間違っていたと思いたくない痛み」を抱えているのだと思う。

こうした心の痛みは、多くの場合、客観的に見つめて言語化することがとても難しい。
それ故に、僕らは知らずのうちに迷い、煩悶するのだ。

だが。
それでも。
僕らはいつまでも「漠然とした心の痛み」を抱えたまま、同じところをグルグルするわけにはいかないじゃないか、と思うのだ。

色んな状況の人がいるから、押し付けるわけにはいかないけど…

僕らは、どっかのタイミングで、踏ん切りをつけて、

「生きていると、ときどき、ひどい裏切りをする人と出会う」
「人は、ときどき、大きく間違うことがある」

ことを、素直に受け入れ、認めることが必要なんじゃないかな。

世の中のひどい現実を受け入れ認めることは、僕らが心に抱いていた理想を捨てたことにはならない。
むしろ、そこから「理想を現実にするための思考と行動」が始まるのだ。

自分自身の至らなさを受け入れ認めることは、愚かであることの証明にはならない。
むしろ、至らなさを具体的なレベルでハッキリと認めることや、人が間違いを犯すことを織り込むことは、賢さの表れだといえる。

なのに、僕らは心が痛むと、そのあたりを錯覚して

「裏切られるのは辛いことだから、人を信じないようにしよう」とか
「騙す奴が悪いんだ! 絶対に許せない!」とか
「騙されるのは愚かなことだ、そんな自分が許せない…」とか

真っ先に反射的にそう思ってしまうものだ。
そう思うこと自体は人として自然な感情だし、いいも悪いもないと思うんだけど…そういった感情が高じるあまり、僕らはしばしば、心を閉ざして現実をシャットアウトしてしまう。
そうして、無意識のうちに、現実を受け止め、受け入れ、自他を広く観察することを、拒否してしまうんだよね。

とはいえ、小島の動機を考えること自体が、全くナンセンスであると決め付けるつもりもない。
そうやって考えることで、自分が納得できて、次のステップに進めるなら、それもいいと思う。

でも、それはそれとして、もっと本質的なところで…

ズルい人、裏切る人は確かにいるから、大事な判断をするときは気分や感情で軽率に決めない。
裏切られることは辛いことだから、自分は「裏切られた」と人から思われるような真似をしない。

騙す奴も、騙される自分も、それぞれに間違っていて、どんな人でも時々はそういう過ちを犯す。
だったら、これから何に気をつければ自分は、そういう過ちを犯さなくて済むのか、考えてみる。

…と、こんな風に、これまでの出来事、これまで体験してきた現実を踏まえつつ、「これから」に目を向けていければ、いいんじゃないかなぁ、と思う。

だって、僕らに必要なのは「後ろめたく恥ずかしい過去」という足枷ではなく、「これからどうするか?」という未来に向けた見通しなのだから。

僕らみんながそれぞれに、少しずつ、少しずつ、ザインに関わってしまったことで抱えた心のモヤモヤを「これからを考え、行動していく」という形に昇華していけたら素敵だね。


posted by Riot at 03:12| Comment(2) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月03日

人の心の中の「カルト教祖」

僕は、人の話を聞かず独善的で自己中心的な輩が嫌いだ。

現実を把握しようとする前に、
人の話、その真意を、よく理解しようとする前に、
「私はこう思う」一辺倒で、自分の思いや考えをごり押しする輩が嫌いだ。

自分の思いが現実の全てです…とでもいうつもりなのだろうか、
神にでもなったつもりなのだろうか。


自分の思い(認識)と現実の間には、必ずズレがある。

認識と現実との間に横たわるズレを
修正していく努力をしない、
そもそもズレていることにすら気付かない人って、
本質的に麻原彰晃とか小島露観とかと大差ないと思う。

彼らカルト教祖は、自分の思いこそが全てであり、
現実は自分の思いに従属すると思ってるから、

地下鉄にサリンを撒いたり、
変態じみたエロ儀式をやったりできたのだ。


人は、無自覚なままに、心の中にそうした
「カルトの教祖」的な何かを
飼っていたりするものなのかもしれない。

だからこそ、カルトに同調して惹かれて
ふらりふら〜りと入って、
意気揚々と信者になっちゃったりするのだね。

そして、カルトの後押しを得て強化された「自分の思い」をごり押しして、
現実を、周囲の人間関係を、自らボロボロと壊していく。


カルトは、その反社会性や特殊性について、色々と語られることが多い。
でもその反面、それは明らかに「人が作り上げたもの」でもあるのだ。

「バカと紙一重の天才」とは程遠い「フツーの人間」が、
教義に後押しされながら自意識をたっぷりと肥え太らせて、
特別になったような錯覚にどっぷりと浸かり、
引き起こされる喜劇的な悲劇…

それがカルトの側面である。


カルトに関わらずとも、
自意識を肥え太らせて、
色んな権威的な何かをカサに着て、

現実を、周囲の人間関係を無視して、
サリンの代わりに「白けた空気」を撒き散らす、
「信者のいないカルト教祖」になっちゃってる人もいる。


僕らが、ホントの意味でカルトと縁を切りたいと思うのなら…

ひとりふたりじゃなくて、
周囲の色んな人の言葉をよく聞こう、
その真意を把握するように心がけよう。

目の前の現実はどうなっているのか、
色んな角度から把握し、観察するようにしよう。

自分の意見に自信があるのなら、
必ずしもゴリゴリ主張する必要なんてない、
人の話を聞いてから、後出しで充分だ。

意見を後出しにしたほうが、
自分以外の色んな視点が踏まえられ、
より深みを増し、ブラッシュアップされるものだから。


webの発達のおかげで、
簡単に自分の意見をセカイに主張できるこの時代。

自己主張に馴れ過ぎた僕らは、
自分の独善性に気付けぬまま、
知らず知らずのうちに、
「信者のいないカルト教祖」になっているのかもしれない。

用心したい、と思う。





posted by Riot at 22:57| Comment(3) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月18日

2013年・最初の更新でございます♪

どうも、Riotです。
いやー、色々バタバタしまくってて、コメントへのレスや更新が今になってしまいました。
私の不徳の致すところです、本当に申し訳ありません。

(またか、もう慣れたよ…というツッコミが聞こえてきそうですが 苦笑)

さて、年が明けて、2013年ですね。
昨年は、いくつものアンチザイクスブログができ、また元会員同士の絆・連携といったものが充実してきたように思います。
ザイクス(シリウス)は、今までの悪行のあれこれをなかったことにして、心機一転、フレッシュな気持ちで商売をやりたい(その実、電話では「創業21周年」とか言ってるあたり、何という都合の良さか)と考えているようですが、元会員の多くに愛想を尽かされ、様々な事実が暴露されているという有様です。
そして、辞めた人間と連絡を取ることを禁ずる、辞めた人間の連絡先を破棄させる…といった努力もむなしく、元会員同士の絆は強まり、また広がっています。
それぞれに色々と大変なこともあるかと思いますが、元会員のみんなで、幸せになっていきたいものです。

緑姫・翠剣の路線になって、持ち直す可能性があることから、シリウスがどうなるか明言はできませんが…少なくとも、連中の今までの悪事をなかったことにする企ては、失敗に終わりそうです♪

そして今年は、「ザイン帝國の真実」開設10周年です♪
ダラダラと続けてきたとはいえ…長かったようで、あっと言う間でした。
ちょうどいい区切りとなるこの1年、Riotとしてできることを、これまで通り、少しずつでもやっていく所存であります。

徒然なるまま、テーマがまとまらぬままの乱筆乱文、読みづらい文章になってしまいましたが…
以上をもちまして、年頭(というには遅いよな…)のご挨拶とさせていただきます。
どうぞ、今年も「ザイン帝國の真実」「ザインwiki」をよろしくお願いいたします。

  by Riot

posted by Riot at 21:54| Comment(14) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月08日

自分を一旦ゼロにする

選挙をきっかけに、考えたことをもうひとつ。

政治家を選ぶ基準に「政策立案能力」「政策遂行能力」「折衝・交渉能力」などがあると思うけど、意外に語られていないのが「人の意見を聞き、集約する能力」である。
メインとなる主義主張はあれど、虚心坦懐に相手の言い分を聞くことで、様々な立場の意見を集約した上で自らの主義主張を練り上げ、その上で政策を練り上げ、実際に遂行していく。

どっかで聞いた話だけど、「一旦、自分をゼロにする」ってやつやね。

相手の立場や状況、言い分を理解した上で、さらなる良案を作り上げる。

一旦推し進めたものでも、現状とそぐわなくなれば、その問題の当事者をはじめとする様々な人の意見を聞き、汲み取って、舵を取り直していく。

ホントは、そういったことが大切なはずなのだが、見事に問題にされていない。

主義主張をぶつけ合って、正しいと思ったものを有権者が選び、票を投じる…だけでは、すっごく皮相的だし、人気取りに走る政治家が出るのもアタリマエだと思うわけだ。

誰をも納得させるような主義主張をするよりも、自身の主義主張のうち現実にそぐわないものを改めていくこと、より多くの立場の意見を組み入れた主義主張にしていくことのほうが、大事なんじゃないかな。

そのためには、「ゼロになること」「自分を脇に置くこと」が必要なわけで。

さて、ゼロがどうこう…という話になると、つい我々は、どっかのハゲ氏を思い出してしまうものだ。

あの人の言う「ゼロ」って、「自分を全部捨てて、俺の言うことを全て頭から信じ込め、疑うな」ってことだったよね…
あの人の言う通りにゼロになってみた結果、僕らは色んなことを見失い、(一時的にせよ)バカになってしまった(汗)

ハゲ氏には、今こそ言い返したい。
まずは、お前がゼロになってみろよ。
自分を脇に置いて、(波動参謀以外の)人の話を聴いて、よく考えてみろよ。

…とまあ、とりとめもなく、色々思ったことを書いてみたのでした。


posted by Riot at 10:50| Comment(5) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月05日

経緯と因果関係を知ることの大切さ

何となく思ったこと。
ザイクス問題、今の総選挙、どちらにも相通ずる、大衆のあり方の問題。

僕らは、ついつい、現状への不満にばかりフォーカスし、そしてその解決ばかりを求めがちだ。
「何でこうなってしまったのか?」という因果関係を知り、考えようとはしない。
本来ならば「経緯」「因果関係」といった、これまでに積み重なってきた現実をもとにしっかり考えないと、「では、どうしたらいい?」と考えるまでには至らないと思うのだ。

総選挙に関して言うならば、政治家やマスコミ(特に後者)は、こうした経緯や因果関係について、丁寧に取り上げようとはしない。その性質上仕方がないのかもしれないが、TVメディアが特にひどい。
「今の問題を解決する政策を打ち出して、有権者に選んでもらう」というだけで、有権者に「じっくり考えた上での判断」をさせようとはしない。

経緯や因果関係がぼやかされたままでは、知恵や、思想や、個人の確固たる価値観なんて、育ちはしない。「今、目の前にある問題」にだけフォーカスしてものを語っているだけでは、ただ、感情という名の「思考」「意見」を形成し、小賢しく声のデカい誰かの思惑にまんまと乗せられて流れていく「か弱く、そしてフワフワした大衆」が生まれるだけだ。

大体、民主主義っていうのは「経緯や因果関係を知り、ハッキリさせ、その上でしっかり考えられる大衆が投票する」ことで成り立つものだと思うんだよね。現在の民主主義は、賢き先人の理想とする民主主義とはかけ離れているよね。

かと言って、どこぞのハゲ様のように、民主主義を否定するつもりは毛頭ない。

経緯を、因果関係を、知るように努める。
その上で、考えるようにする。

そうしていかないと、日本人、ひいては世界人類は、より良い未来を手にするための進化・成長はできないんじゃないかなぁ。

人々を賢くしようとしない国家やマスコミなどの権力(もとより、権力とはそうしたものなのかもしれない、残念ながら)に呆れつつ、それを脇目で見ながら、「僕らは、どうすれば、本質的な意味で賢くなれるかな…」なんてことを考えるのだった。


posted by Riot at 21:47| Comment(2) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月25日

核石の効果がない理由を、改めて考えてみる

ザイクス(シリウス)が販売している核石に、謳われている効果がないことは、このブログを覗いている方のほとんどが、既にご存じのことでしょう。
今回は、一歩踏み込んで、「じゃあ、何故、核石は効果が出ないのか?」ということについて、考察してみたいと思います。


恋愛とか、仕事とか、人間関係とか、金運とか、そうした願望を叶えるために、必要なことって、あるんじゃないかと思うんです。

「行動し、体験し、現実を知ること」
「目の前の現実を受け入れ、それを踏まえて、どうすればいいか考えてみること」


願望を叶えるためには、この2つが、絶対に必要です。

体験を通して…特に「うまくいかなかった体験」を通して、人は「このままではうまくいかない」「では、どうすればうまくいくだろうか?」と考え始め、新たな知恵やひらめきが生まれ、内面が変わり、それに沿った行動をとるようになっていきます。そして、その積み重ねで、願望を叶えていくための力を身に付けていき、それに応じて周囲の環境や態度も変わり、結果として願望が叶うのです。


ということは、本当に効果のあるパワーストーンというものは…

「行動し、体験し、現実を知ること」
「目の前の現実を受け入れ、それを踏まえて、どうすればいいか考えてみること」


の、お手伝いをしてくれるものなんですね。


そして、そういうパワーストーンは、ちゃんと存在します。
ヒカリタマ・カイさんのブログの、以下の記事をご参照ください。

パワーストーン紹介に関する補足

石を持つから願いが叶う…というよりも、石が、願いを叶えるために必要な出来事を引き寄せるのですね。あるいは、石が人間を選んでいるかのような出来事が起こる、と。


シリウスの核石に限らず「この石を持てば、願いが叶いますよ」というのは、うまくいかないことばかりで心が弱ってる人に対する甘言で、全く以て実体のない言葉であります。

ちょっと考えてみれば分かりますが、パワーストーンを持った途端に大成功した人って、見たことありませんよね? 「時間の神の力が宿った石」であれば、そういう人はたくさんいそうなのですが、広告以外でそんな人、見たことも聞いたこともありません。
だって、成功に必要なのは、それに伴う「中身」であって、決して「石」じゃないんですから。

本当に良いパワーストーンを売っている人は、「持てば願いが叶う」という生易しいことは、決して言わないと思います。そして、お客さんがパワーストーンを持つ持たないに関わらず、人生上に起こる出来事に対して、それをうまく受け止められるようなアドバイスをしてくれるはずです。


翻ってシリウスは「持てば、信じて委ねれば、効果が出ますよ」の一点張り。
もし謳われてる効果が出なかったら「それはメンゲン反応です」とか「では、こちらの聖品はいかがですか」とか、そんなのばっかりです。

目の前の出来事から学ぼう…という姿勢が、売る側、買う側、共に欠けている。

実に嘆かわしいことです。

まっ、売ってる側が、目の前の出来事よりも、小島露観の口から出た言葉のほうを真実だと思い込んでいるわけですから、どうしようもないのですが…


さらに言うならば…良いパワーストーンは、ザイクス(シリウス)で扱っているような質の低い石ではなく、上質な石です。

ザイクス(シリウス)が、原価の安い、クォリティの低い石を使うのは、意図しているかどうかに関わらず「プラシーボ効果」を当て込んでいるからではないか、と私は推察しています。

過去に、幹部たる北宮秀真さんが「もっと上質な石を使うべきだ」と具申して、退けられたことがありました。
もし上質な石を扱ってしまうと、色んな人生上の試練がお客さんに訪れてしまって、「効果なんて出ないじゃないか」とクレームの嵐になってしまうから…なのでしょうね。


そんなわけで、シリウスの核石に限らず、「持てばこんなにいいことありますよ」ということを調子良く並べ立ててるパワーストーン、パワーグッズは、須らく嘘八百です。ご用心、ご用心。


posted by Riot at 12:36| Comment(3) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月18日

人は変わる、変われる、癒される

最近、ある元会員の方とやりとりしていて、このブログの過去記事を読み返す機会があった。

4年ほど前、僕はザインのことを振り返る記事を書いている。

「僕にとってザインとは」

その中で、

>僕は、憎しみでザインと対峙するのはやめようと決めてはいるけれど、
>それでも、僕の中からザインへの「憎しみ」がきれいさっぱり消えることは
>今後もないだろう。


と書いたんだけど、あれから4年近く経った今の僕には、ザインへの憎しみがきれいさっぱりなくなったのを感じている。

大きな変化は、ザインに関わった過去を「恥ずべきもの」と捉えていないこと。
そして「人間って、心が痛むと、そういう道を選んでしまうんだよね…」と、自分自身のことを、やさしく客観的に受け止められるようになったこと、だ。

今の僕は、ザインに対する個人的な憎しみというよりは、「社会悪だと認識し、世の中に知らせていこう」という気持ちで、できる範囲で動いてる感じだ。

多分、ここ数年で、自分の中にある痛み、辛さや悲しさをやさしく受け止め、やさしく認めて、その上で未来に目を向け、小さく行動し続けてきた、その積み重ねでこのように変化したんだと思う。

もちろん、簡単に痛みが癒されるわけじゃないし、乗り越えられるわけじゃない。
今、辛い人に対して、無責任にそんな風に勧めようとも思わない。

けれど、人間って、変われるもんなんだなー、と改めて思ったのだ。
辛いことがあっても、思うようにいかないことがあっても、そんな自分とやさしく向き合い続けることで、その悲しみはやがて癒され、色んなことが美しく、軽やかに変わっていく。
怒り、悲しむ自分をやさしく、力強く、めいっぱい肯定し続けて、癒されていくうちに…痛ましい思い出から痛みが消え、それは知恵と経験に形を変えるのだ。

確かに、人生には避け難い、苦しみや悲しみ、怒りや恥辱がある。

しかしまた、

生きることには、希望と可能性がある!

「自分を変えてくれる何か」にすがるまでもない。
ほんの小さなできる部分から、自分にやさしくしてあげて、能動的に生きることにこそ、希望と可能性があるんだ!

今の僕は、強く、そう思う。



posted by Riot at 14:20| Comment(7) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月07日

「弱さゆえに」カルトにハマるって、ホントかな?

たまに見かける言葉なんだけど…

「カルトにハマるのは、自分が弱いからだ」

僕も、数年前まではずっと、そう思っていたのだけど、
うーん、これって、本当なのだろうか?


よく、人のことを「弱い」「強い」っていうけれど、
じゃあ、その基準って、一体何だろう?

僕が思うに…
「強い」って言われてる人は、
色んな苦しいことを乗り越え、意志し、行動し、
物事を成し遂げていく人だと思う。


その一方で、人が生きていく中で、
苦しいことから逃れることは、不可能だ。

どんな生き方を選ぶにせよ、
それなりの苦しいことが、必ずやってくる。
お釈迦様の、言う通りだね♪


避け難い、いろんな苦しみに直面しながらも、
それらと上手く関わり、乗り越えていくことを
世間では「強さ」と呼び、

いろんな苦しみに直面した挙句、
心がグサリと傷ついて、

強い苦しみ、悲しみ、怒りでいっぱいになったり、
心を閉ざして、孤独感でいっぱいになったり、
自分はなんてダメなんだ…と無力感でいっぱいになったりして、

結果として、苦しみに上手く対処できず、
また、目の前の出来事にも上手く対処できないことを
「弱さ」と呼ぶのだと思うんだよね。


「強さ」とか「弱さ」とか、
そういう括りで考えてしまうと、

辛くなってしまうし、
つい、弱い自分を責めてしまいがちだ。


世間では、「強い」ことが憧れの対象となってもてはやされ、
「弱い」ことは、ともすれば侮蔑の対象となるから、

僕らはいつの間にか、「弱さ=悪」という価値観に、
縛られてしまうんだよね。


でも、
痛みや苦しみに、うまく対処していくことが「強さ」で、
うまく対処できないことを「弱さ」と捉えてみることで、

自分を責める気持ちが、ちょっとラクになって、
「どうやったら、痛みや苦しみに対処できるだろうか?」という、
建設的な気持ちになってこないだろうか?


僕は、痛みや苦しみって、
受け止め、受け入れ、対処し、乗り越えていくものだと思う。

でも、人って、痛みや苦しみを否定し、
その結果、現実から逃避し、対処できず、
なかなか、うまく乗り越えていけないものなんだよね。

それが、結果として
「弱さ」とか「甘さ」と言われるものに、なるわけだ。


「自分が弱い」
「自分が甘い」っていうのも、

カルトにハマッてしまうのも、

言葉を変えれば…

痛みや苦しみを、どう受け入れ、
どのように向き合い、どのように付き合っていけばいいか、
ただ、分からなかった…ってだけなんだよね。

だからさ、
今までの過去を反省するにせよ、
これからの未来を生きるにせよ、

「弱さ」「甘さ」という枠組みを
いったん脇に置いてさ、

色んな痛みや苦しみを、どう受け入れ、
どのように向き合い、どのように付き合っていけばいいか、

どうやって、そういう苦しみに対処し、乗り越えていったらいいか、

そこに、意識を向けてみることが、大切なんじゃないかと思うんだ。

そして、日々の自分の心と、
うまく向き合っていき、上手に付き合っていくことが、
本当に大事なことだと思う。

これ、自分が強かろうが、弱かろうが、関係なく、
誰にとっても等しく、必要なことだと思うんだ。

そうでないと、心が痛んだときに、
「自分が弱いから、心が傷つくんだ」って思って、
自分を責めてしまうことに、なってしまうからね。


そして。
誰もが、自分と上手く向き合えれば、
カルトなんて、存在できなくなると思う。

だって、自分の心の喜びや痛みと、上手く向き合えて、
心が痛みを感じる度に、その都度、対処できてる人に、

「こうすれば簡単に、願いがかないますよ」とか
「アイツらが悪だ、間違っている、我々が正しい」とか言っても、

ぜーんぜん、動じることがないからね。


まずは僕自身が、自分とうまく向き合える人になる。
そして、自分と向き合える人を、世の中でいっぱいにする。

それが、最高の「ザインへの復讐」であり、
今いちばん、心ときめくことなんだよね。



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ちょっとコメントへのレスでも書いたことですが、
しっかり伝えたいなーと思ったことなので、
改めて記事にしてみました。

(なんか、龍庵な文章になってしまった、これも愛嬌やね)





posted by Riot at 20:32| Comment(2) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月20日

瞑想するようになって、思ったこと

最近、瞑想をするようになった。

しばらく前に瞑想を勧められたときは、
「めんどくせーな、時間がかかるし」と思って、やる気が起きなかったのだが、

どんなにやさしく認めて受け止めようとしても受け止めきれない、
些細な出来事や、大きな悩みや苦しみを手放して、
自分の中の「いちばん深い部分」を大切にしよう、
もっとラクに、自由に、日々を生きよう! と思うようになって、

「魂の瞑想」なるものを考え付いて、
時間のあるとき、精神的にモヤモヤしてるときに実践している。

そんなに長時間でもない(10分くらいかな)し、
自分の心が整っていくことが楽しいので、
今のところ、飽きずに続けている。


これは人によるのかもしれないけれど…
瞑想って、些細な出来事に囚われないようにするために、
深いところから発する、自分の心の声を感じるために、やるものだと思う。

日々を普通に生きていても、瞑想に取り掛かっても、
頭には、心には、様々な思念が浮かぶ。

何の脈絡もなく、お気に入りの音楽が浮かんだり、
気になることを、グルグル考え出したり、まあ色々だ。

自分の中から浮かんでくる、そういったものに振り回されてしまうと、
「本当は、自分は何を求めているのか?」ということが、
見事に置き去りになってしまうわけだ。


そして…瞑想って、
「インスピレーション」と思しき何かを、思い浮かべるためにするわけじゃない。
そんなことに気付いた。


で、ザイクスの話である。
小島露観は、しばしば瞑想しているが、
それは「時間の神の権化身が、天啓を得る」ためにやっているのだと思われる。

しかし、小島のやっていることは、
頭や心から生み出される、雑然とした思念を
一生懸命掴もうとしてるだけだ。

そうやって掴んだ、雑然とした思考や感情が、
そのまま「神文学」とか「ザイクスのルール」になってしまう。

うーん、トホホな話だ。
そして、ちょっとアブナくて、怖い話だ。


例えるならば、僕の普段の生活の中で、

「仕事してたら、頭の中に、お気に入りのハードロックの曲が流れてきた」

とかいうレベルの話を、

「智慧者の天啓」

として広めるわけだから。


思いつきにハクをつけるための瞑想、
思いつきに意識を向けるための瞑想なんて、
さらに自分を迷わせるだけだから、
やらないほうがいいんじゃないか…と思うんですよね、小島さん。

ましてや、あなたの瞑想から出たビジョンは、
他人を無責任に巻き込むから、始末に負えないのですよ(苦笑)



posted by Riot at 05:46| Comment(4) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月16日

大津のいじめ自殺事件を観察して…怒りについて考える

大津のいじめ自殺事件が、大々的に報じられておりますね。ネットでも祭りになってますし。
家まで入り込んで荒らす、死んだ蜂を食べさせる…といった、いじめという言葉では済まされない内容、学校や教育委員会の対処のまずさ、加害者側の言動…民衆を怒りに駆り立てる要素だらけの事件で、ネットで祭りになるのは必然かと思います。

悪質かつ不当な犯罪行為の末、前途ある一人の少年の命が失われ、加害者は反省を見せずに逃げおおせ、学校や教育委員会には、当事者能力が大いに欠けている。それらへの怒りゆえに、ネット上で怒りを表明し、鬼女の人のような各種活動をするのは、Riotとしてザインに対し怒りの声を上げてきた僕としては、大いに理解・共感できるところです。

しかし。
怒りだけじゃ、何かを変えることは難しいことも、また確かです。
僕はRiotとしての活動を通して、このことを強く実感し、思い知らされました。

怒りは往々にして、人から冷静さを失わせます。視野が狭くなり、事実の裏を取ろうとせず、継続的に観察して判断しようとせず、感情的な決めつけのもとに性急な行動に出てしまいます。その怒りが、関係ない人を不当に傷つけたりすることもあります。

怒りという感情は「相手を痛めつけ、罰し、屈服させる」という破壊的な方向に強く向いていて、その先にある「今後、何をどうすればより良くなるか? どうしていけばいいか?」という建設的な思考をできなくさせます。また「自分達の行動が、第三者にはどういう風に見られているか?」という客観的な視点が、ごっそり抜け落ちてしまうものです。

強い怒りって、他人からはなかなか理解してもらえないものです。怒りを露わにされると、腰が引けてしまう人は大勢います。怒ってる人とは、積極的に関わりたくないな…と、人は反射的に思うものです。

そして、法律などの世の中のルールやシステムは、怒りで動いてるわけではありません。「おかしい、非道だ、許せない!」という気持ちだけでは、公的機関・民間問わず、様々な人々の理解と協力を取り付けることは不可能です。人は、ひどい事件が起こると「明らかにおかしいから、法的に罰せられるべきだ」って条件反射的に思うものですが、現実はそんな簡単にはいかないんですね。

怒る気持ちは否定しないし、それはそれで良い。怒りは人を突き動かす強いエネルギーとして、活かしていけばいいんです。
しかし、怒りがもたらすマイナス面を自覚した上で、「今後、どうなっていくのが望ましいか?」という展望がないと、それはゲリラ的な活動、一過性の暴動、思想的に偏った活動にとどまってしまうんですね。

本当に怒っているなら、そして何かを変えたいと願うなら、できるだけ多くの人を味方につける必要があります。そして、それが可能になるだけの説得力を持つ必要があります。
そのためには、怒りばかりが先走ることなく、事実を記録し公開し続ける、色んな立場・視点から事実を観察する、論理的にも感情的にもわかりやすく伝える…といったことが、大切になってくるんじゃないかなーと、僕は考えます。

怒りで何かが変えられる…ってのは、所詮は幻想です。
怒りにプラスして、冷静さ、視野の広さ、未来への道標が相まってこそ、そこに大きな説得力が生まれ、何かを変えられるんじゃないでしょうか。



posted by Riot at 14:19| Comment(4) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月16日

人としての良心や情を、否定するザイクス

何となく思ったことを、徒然と書いてみます。

ザイクスという組織に適応し、その中でうまくやっていくには、
きっと、人の心を捨てなきゃいけないのでしょう。

よく2chなんかで、上官やら幹部やらが
「空威張りしている」「人の立場を思いやらない」と叩かれますが、
そもそも小島自身が、そういう姿勢を推奨してるんですよね(苦笑)

小島って、基本
「人としての情を捨てて、自分の命令の通りに従わせろ」というスタンスです。

かつての古代帝國軍時代も「情を捨てて我に従え」っぷりが
ひどかったんだろうな…と想像できますが、

今の無理矢理売りつける路線になってから、
悪魔やら何やらを持ち出して、人として当たり前に抱く感情を否定して、
「我に従え」という姿勢が一段とひどくなっている感があります。

報道以前たまに見せていた「人を慮る姿勢」も、今にして思えば
「自分の中の『優れた指導者像』を、真剣に演じていただけ」なんですよね…
あの、どこか自分に酔っている感じは、ガチの演技が為せる業なのかと思います。

あそこでやっていくには、人としての良心とか情とかを放棄して、
ひたすら相手の立場を無視して、上から目線でものを見て、
小島の思いつきや屁理屈を押し付ける、そんな姿勢が要求されるんですね。

であるならば、上官や幹部が人の話を聞かないのは、ある意味当然ですね。
だって、ボスの小島が、人の話を聞かないし、都合の悪い事実には目を背けるし、
自分のせいで苦しんでる人に対し、何の良心の咎めもないのだから。

上官やら幹部やらを叩く気持ちは、
「それだけ不愉快な目に遭った」ということの現れであり、
十分に理解できるのですが…

「それだけ、小島をはじめとするあの団体は、
 人の心を捨て、人としての良心を否定する連中である」

という視点も大切なんじゃないかな…と思うのでした。


そして、きれいさっぱり辞めた僕らは、
人としての良心を大切に、周りの人を大切にして、
穏やかに、楽しく、生きていくのがいいんじゃないかなーと思います♪

人の心を大切にするどころか、それを否定してかかるザイクスは、
誰の支持を得ることもできず、必然的に崩壊します。

だったら僕らは、
かつて、一生懸命剣振ったり、ELやOPを受けたりしたのと同じ勢いで、
人としての良心とか情とかを、日常レベルで大切にしていければ、

周りに優しくなれるし、
周りに優しくしてもらえるし、
建設的な考え方や行動が、できるようになっていくと思うんですね。

人としての良心や情を無視して、
ついでに常識や社会通念を無視して、墓穴を掘るザイクスは、
嘲笑しこき下ろす対象である以上に、良き反面教師じゃないかと思うのでした。

連中に対し、怒りとか、悔しさとか、
モヤモヤした気持ちがあるなら、それをぶちまけることは必要です。

だけど、それだけにとどまらず、
あの連中を「悪い見本」として学んで、
日々、幸せに生きていくための努力をすることが
すっごく大切なんじゃないかなーと、僕は思うのでした。


posted by Riot at 13:44| Comment(3) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月19日

信頼できる人や組織を見分ける方法

チラリとコメントに書いた内容ですが、記事として上げておくことにします。

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世の中には、色んな人がいますし、色んな会社や団体などの組織があります。
僕らは、ザイン(ザイクス)や小島の言うことを少しでも信じてしまったおかげで、痛い目を見たわけですが、今後、そうした色んな人や組織と関わる上で、「相手がどれだけ信頼に足るか?」ということを見分ける・見極める方法を、僕らは学ぶ必要があります。
再び、信じるに足らぬものを信じ込んで、痛い目に遭うことのないように。


「この人は、信頼できる人か?」
「この組織は、信頼できる組織か?」

それを見分けるポイントは、いくつもあるとは思いますが…
ひとつ、分かりやすいポイントがあります。

それは

「その人・組織が、例外と向き合っているか?」

です。

アタリマエな話ですが、人や組織には、色んな考え方や価値観があるものです。
しかしながら、どんな相手にも、どんな状況にも当てはまる考え方、価値観、行動指針なんてものは、存在しません。必ず反対意見、支持しない人、対立する人が存在しますし、色んなイレギュラーが生じるのが世の常です。
あらゆる人や組織は、日々、こうした「例外」と向き合っていく必要があります。


信頼できる人や組織は、例外に対し、次のようなスタンスをとります。
(これらの要素が多ければ多いほど、信頼できる人や組織であると判断できます)

・反対意見や不支持の姿勢があるのなら、その理由を知ろうとしたり、推察しようとしたりする。
・自分の考え方や価値観にそぐわない「例外」を、まずは事実として受け止める。
 その上で、事実関係を冷静に把握しようとしたり、その理由・意図・背景を推察したりしていく。
・「例外」に対し、断定的に反応せず、謙虚な姿勢で接する。
・「例外」を踏まえて、考え方、価値観、行動指針をブラッシュアップしていく。



100%の信頼を置けない人や組織は、例外に対し、次のようなスタンスをとります。
(※ほとんどの人が、これに当てはまるかと思います)

・反対意見や不支持の姿勢を前にしたとき、その理由を慮ろうとせず
 「人は人、自分は自分」と割り切ったり、相手の間違いを正そうとしたりする。
・「例外」に対する洞察が浅かったり、「○○だからだ」と決めつけたりする。
・「例外」に対して、見て見ぬふりをしたり、強く批判したり、嫌ったりする。
・「例外」から学ぼう…という姿勢が見られない。



そして、信用してはならない人や組織は、例外に対し、次のようなスタンスをとります。

・反対意見、不支持の姿勢を、一切認めない。
 個人においては暴言レベルの悪口、陰惨な陰口となって現れ、
 組織の内部においては放逐、外部においては批判の槍玉に上げる…という形で現れる。
・その割には、人から支持されたい…という思いがものすごく強い。
・イレギュラーが生じた際は、その責任を周りにかぶせる。
・「例外」に対し、強い否定、強い拒絶を示す。
・例外的な事象は「排除の対象」でしかない。



総合すると、こんなことが言えます。

・多くの人や組織には、どこか信頼に足らない部分がある。
 まずはそれを、事実として認める必要がある。
・その上で、可能な限り、少しでも「例外と向き合おうとしている」姿勢を示す
 人や組織と付き合っていくようにする。
・また、僕らは人から信頼されたかったら「例外」を事実として受け止めた上で、
 反対意見や不支持の姿勢の裏にある理由を推察し、そこから学んでいく必要がある。
 理解できる点は積極的に理解し、改善すべき点を改善していけば、
 人や物事に対して寛容になるし、不測の事態への備えへと変わっていく。


信頼できる人や組織を上手に見分けつつ、僕らも周りから信頼されるように、日々「例外」と上手に向き合い、自分を磨いていきましょう♪


posted by Riot at 11:16| Comment(5) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月02日

結局、小島がザイクスでやりたかったことって…

うっわー、久しぶりの更新になっちゃいました(汗)
ある方に「2週間に1ぺんくらいは更新したほうがいいんじゃない?」と言われたのですが、なかなかままならないものです。…心身の管理といいますか、もっと自分や目の前の物事と、うまく向き合い、より多く行動できるようになりたいです。

今回の記事は、今までコメントでちょくちょく言ってたことを、一記事として書いておこうかな…といった趣旨のものになります。目新しさがなくてゴメンナサイ(苦笑)

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小島露観は、ザイン(ザイクス)を立ち上げて、一体、何をしたかったのか?

僕の心の中のどこかに、ずっと、この問いがありました。そして、僕だけじゃなくて、一定数の元関係者が、この問いを心に抱えているんじゃないか…と思います。

僕がRiotとして、ザイン(ザイクス)の過去から現在に至るまでを観察し、元関係者の数々の声に触れ、色々考えた結果…小島は単に「独裁者ごっこがやりたいだけ」なのではないか、という結論に至りました。

ザイン(ザイクス)って、一言で言えば「カルト宗教」なんでしょうけど、過去から現在に至るまでの変遷を見ると、政治、思想、ビジネス、宗教といった、色んな側面がみられます。でも、ザイクスは、このいずれでもありません。

政治団体であるなら、本当に政権をとるのであれば政党を立ち上げるはずです。小島は民主主義を否定しているので、政党を立ち上げはしないでしょうが、それにしても政治団体としてザイクスを存続させていたのではないかと。
また、政治を志すのであるならば、もっと部下に勉強させるでしょうし、ディベートなんかもやるでしょう。そして、自分たちの主義主張に反対する意見や対立する意見も斟酌して、その主張や活動方針を決めていくはずです。

思想団体であるなら、アクセサリーを売る必要もありませんし、セミナー(儀式)をやる必要もありません。また、人を畏怖させたり恐怖させたりする必要もありません。
純粋な思想集団であれば、本を出し、集まってきた人々に思想を流布しているだけでいいはずです。

ビジネスであれば、今度は政治的な要素、思想的な要素、宗教的な要素が、あまりにも足枷になります。お客さんに喜んでもらえるものを提供し、適切な額の対価を頂くのがビジネスであるならば、小島露観のやっていることはビジネスとは言い難い。
「ザイクス」と呼称が変わる以前の、最盛期のザインは、商品や広告が今ほどお粗末ではなく、マーケティング的に上手くいっていたため、ビジネスとして成り立っていたわけですが、実際は「事実上のカルト宗教」だったのでした。
現在のザイクスのビジネスを一言で言えば「悪質な霊感商法」になるわけですが、悪徳商法にしては、ザイクスは息が長い(苦笑)これがまた「ビジネス的ではないな」と僕は思うのです。こんな悪事でお金儲けするなら、同じ商売を延々と続ける…なんてことは、しないんじゃないかな、と。集客して利益を出すのがビジネスですから、いっそのこと撤退して商売替えをするとか、普通はやるもんですが、それをやらない。いわゆるビジネスとは、そこが全然違います。

宗教団体であるなら、どうして宗教法人にしないの? という疑問があります。実質上は宗教なのですが、小島はいわゆる「教祖」ではなく「為政者」「軍略家」というセルフイメージを持っているから、宗教にはしないのでしょう。

小島がやってきたことは、これらのどれにも、スッキリと当てはまりません。
じゃあ、結局、小島がやりたかったことって何なのか? となると、政治でも、思想の流布でも、ビジネスでも、宗教の立ち上げでもない…ということになります。

さらに、僕自身の現役時代の体験やRiotとしての観察、元関係者の声を総合して考えると、小島は単に「独裁者ごっこ」「覇王ごっこ」「世界を背負う救世主ごっこ」を、リアルにやりたかった、ただそれだけじゃないのかな…としか思えないのです(苦笑)
小島という男は、単に、部下に思想を吐露し、命令し、服従させ、裁き、理不尽な命令をしてもなお自らに従う部下の姿を見たいだけなのです。大好きな諸葛孔明やナポレオンのような、歴史に名を残す大人物になり切って「(実情はともあれ)偉大な政治家・思想家・軍略家でありたい」「人々を意のままに従えたい」、ただそれだけなのです。そして、小島の「独裁者ごっこをしたい」という欲求を全て満たすために、ザイクスという組織は存在してきたように思います。

単純に「ガチのごっこ遊び」ということであれば、小島のやってきたおかしなこと、全てに説明がつきます。
主義主張に矛盾があっても、ごっこ遊びなら、何にも問題がありません。何故なら、遊びであれば、それが正しいかどうかを考えること自体に意味がないから。
剣術が鼻で笑われるようなデタラメでも、聖品や儀式の効果がなくても、当たり前です。何故ならこれも、小島による「壮大なごっこ遊び」だから。

そして、ごっこ遊びであるからこそ、小島は一切の責任を負うことを拒否するわけです。自分のしてきたことにより生じた結果を事実として受け止め改善するのではなく、「全てうまくいった」と言い切るのは、独裁者然として威張りたいから…じゃないかなと。
それに小島は(ザイクスは)、自分よりも力のある者に、実際に力を行使されるのを怖れます。某右翼団体に脅されれば街宣やナチっぽい服装をやめ、元会員が依頼した弁護士から連絡があればそそくさと返金に応じる、その姿には筋とか信念とか、そういったものは欠片もありません。我が身が可愛いのは当然です、だって、ただの「遊び」なんですから(苦笑)

小島の「現代社会をぶっ壊したい」という狂気じみた思いは、ただ思っているだけであれば何ということはなかったし、小さな思想団体としてやっている分には、また世の中にさほどの害はもたらさなかったでしょう。しかし、世のオカルトブーム、大手出版社社員との出会い、政治家志望の大手サラ金会社会長の娘婿との出会い、パワーストーン販売の成功…といった様々な要因が重なり、小島の「ごっこ遊び」をリアルで行うための舞台装置が整ってしまいました。その結果、1人2人では済まない数の人々が巻き込まれ、お金と時間とエネルギーを浪費したり、心身を傷つけられたりするに至ったのです。

小島は、生まれる時代を間違ったように思います。
80年代に生まれたならば、小島はきっと家に引きこもって、ゲームをやったり、アニメを見たり、しているはずです。ゲームの箱庭世界、昨今の良く出来たゲームの演出は、小島の独裁者願望を、それなりに満たしてくれるはずでしょうから。「信長の野望」や「三国志」といったKOEIのシミュレーションゲームの世界の中で、何度も世界統一気分を味わい、あんなアホみたいな剣術の代わりに「三國無双」にハマるんじゃないかと。COM相手に飽きたら、オンラインゲームに手を出して、ネトゲ廃人にでもなればいい(笑)
また、エヴァ以降のセカイ系アニメ、転じて「コードギアス」なんて、小島がハマりそうな題材じゃないかと(苦笑)「哲学的・心理学的な概念が飛び交う作中世界で、世界を背負って戦う使命を背負わされた俺…」とか、「超能力で人を従わせ、権謀術数をフルに使って、『世界よ、我に従え!』なんて言っちゃう話」とかって、小島、好きそうじゃないですか(笑)そういう虚構の世界にドップリとハマッて、部屋に引きこもって、一切の社交性を発揮することのないヲタにでもなってくれたら、身内以外の誰にも害を及ぼさなくて済んだのですが。

小島に言っても無駄でしょうが…
ごっこ遊びは、現実と一線を画して、完全フィクションの箱庭世界でやってほしいのです。
実際に多くの人を巻き込んで傷つけることなく、部屋に引きこもって、ゲームやアニメの中でのドンパチと支配と征服で、満足してもらいたいのです。

「一人の人間の壮大なごっこ遊びに振り回されたんだな、俺…」と思うと、そんな自分に苦笑いしてしまいますね。そして、そんな「独裁者ごっこ」に振り回された挙句、多くのものを失い傷ついた多くの元会員・現会員のことを思うと、怒りというよりも切なさを感じてしまうのでした。

そして、最後に。
小島のやってきたこと、そしてその行動原理が「ごっこ遊び」であるならば、小島が亡くなった後のザイクスは、必然的に、崩壊するか、体質を大きく変えることになるでしょう。

・組織そのものが解散に向かう
・ビジネスとしてうまくやる(商売を鞍替えする、イメージアップに努めるなど)
・ビジネスとしてうまくやろうとしても、無能ゆえに失敗して、なし崩し的に解散する

このどれかだろうと予想していますが、果たしてどうなるのか。連中をずっと追ってきた者として、興味深いところです。


posted by Riot at 20:34| Comment(14) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

「次男の話」から推測するに…

この間、2chでは、小島の二男の話が出ていた。

早大に入学し、アルバイトで家庭教師をやっていて、
とある会社に登録している…ということだった。

頭の悪い2ch住人は、やいのやいの騒いだり、
小島の二男を叩くため、家庭教師の登録会社への通報を試みたり、しているようだが、

感情の盛り上がりに任せて騒ぐあまり、ひとつ肝心なことを見落としている。


二男の家庭教師バイトから導き出される、ひとつの仮説。
それは…

小島家は、現在、

子供にアルバイトをしてもらわなければならない、
すなわち、小遣いまで含めて仕送りをする、経済的余裕がない


…ということだ。


仮にも、年商12億の会社(無借金経営)の社長の息子であるし、
これまでの小島家の内情を鑑みるに、
子供に積極的な社会体験を積ませよう…という教育をしてきたとは考えにくい。

もし、お金があるのならば、小遣いも含めたそれなりの額を
息子に仕送りしているんじゃないか…と思うのだ。


まっ、事実は知るべくもないので、
ひとつの想像、ひとつの仮説でしかないのだが、

これが当たっているのであれば、

ザイクスは、僕らが思っている以上に、経済的に追い込まれている

…ということになる。



そして、最近のザイクスの動きが、なかなか表に現れないことも、
僕は気がかりだったりする。

現在の会員に対し、どのような営業(という名の集金活動)を行っているのか?

なかなかそういう話が聞こえてこないことで、
かえって、疑念と心配が膨らむ…というものだ。


Riotとしての僕が発言することは、最近減ったけれど…
Riotは依然、ここに存在します。

もしザイクス絡みで何かありましたら、お気軽にご一報ください。

僕にできる限り、ご相談に応じさせて頂きます。




posted by Riot at 17:00| Comment(6) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月27日

関西オフ、行ってきました♪

どうも、Riotです。

先日、神戸にて、関西OFFを開催しました♪

今回、全然人が集まらなかったのですが、少人数で楽しんできました!
お茶しながら色々近況を語り合ったり、ザイクスの昔話や、小島露観の馬鹿さ加減をネタにしたり…短い時間ながら、色んな話をしました♪

高校の修学旅行以来、久々に異人館に行ったので、高台からパチリ♪

CA3C0125.jpg


連中に関わったこと自体は確実に「悪いこと」なのですが、それでも、こうして集まれて、またひとつ良い思い出ができました♪
ご参加下さった皆様、どうもありがとうございました。
posted by Riot at 16:00| Comment(4) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月12日

「信じることについて」@twitter

twitterをやってたら、こんなつぶやきを発見。

 宗教や信仰心って大切なものだと思う。
 しかし、それを他人にも押し付けようとする行為は好きではない。
 自分の考えについて語った時に
 その話しに見合うような人間であれば
 相手は自然と納得してくれるものですよ。

↑このつぶやきを受けて…
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↓僕はこうつぶやいた。

信じる何かを持つことは、世間で思われてるほど悪いことじゃない。
信じることは心に強い力をもたらすから。
でも、何かを盲目的なまでに信じてしまってるときって、
心の奥にある傷がうずいてるときが多い。

色んなものを色んな角度から見て、知って、触れて、
その上で何を信じるか決めればいいと思う。


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信じることで、
ますます自分自身を信じられるなら、それは良いことだ。

逆に、信じなければ、自分自身が保てないように感じられるなら、
きっと信じるものが間違っている。
そういう場合、往々にして、心にどこか傷を抱えていたりするものなんだよね。

何を信じようと、まずは自分自身に愛を!


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この場所で、折々語ってることかもしれないけれど、
改めて、言葉を残しておくことにします。
posted by Riot at 20:52| Comment(6) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月28日

父の話

以前、過去を振り返る記事を書いたときに、父の話を書いた。
改めて、今日は、父との関係について書いてみたい。


小さい頃、学校の勉強以外の色んなことが上手くできない僕は、
よく父から「バカだな」って言われていた。

僕とは逆で、勉強以外の色んなことが上手くできて、人当りもいい弟が、
父とキャッチボールしたり、
父の手伝いをうまくやっていたりする姿を見て、

「俺は必要とされない、ダメな人間なんだな」

という気持ちになっていた。


今でも、心が弱る度に、

「何て、自分はダメな人間なんだろう」
「自分は生きている資格なんてないんだ」

という言葉が、フッと頭をよぎるくらいだから、
このときの感情が、いかに僕の中で根深いものであったのか…ということを、
今更ながらに思い知らされている。


そんな父との関係だが、ここ2年ほどの間に、
僕は改めて、父のことを客観的に見られるようになった気がする。


例えば、父の「バカだな」という言葉は、
一種の愛情表現だということ。

「できない子ほど可愛い」というが、それに近い気持ちがあったのだろう。
大人になった今でも、ふとした会話で「バカだな」と言われるのだが、
今になって初めて、そのニュアンスに気付いたのだった。


巨人戦のTV中継にかじりつき、
不甲斐ない選手に腹を立てて文句を言いまくるのも、
子供のときにはその心情が理解できなかったのだが、

大人になって、
僕自身、スポーツ観戦(ほとんどTVだがw)が好きになって、
選手の卓越した身体能力やスキル、心理状態、勝負の流れ、といったものを
じっくり味わうのが楽しくなって、
父の野球の話の聞き役に回れる自分に気付いた。

僕が帰省する度に、
父が、どこか嬉々としながら、
巨人の不甲斐ない戦いぶりに文句を言いまくってるのに気付いた。

口に出しては言わないが、
父も、僕が帰省してくるのを、何気に楽しみにしてるみたいだ。


かなり長い間、父のことは
父親として尊敬はしていたものの、ちょっと苦手だったし、
その後も、父に対してどこか関心が薄かったのだが、
今になって、父の心情が少し分かるようになった。

もう少し早く、こういうことに気付きたかった。

親の気持ちって、歳を食わないと分からないもんなのかな…
それとも、僕が自己中心的で、他人のことを考えるほど余裕のない人間だったから、
親の気持ちに気付けなかったのかな…

考えると切なく、残念な気持ちになるけど、

とにかく今は、父との関係には満足しているし、
改めて、感謝の気持ちが湧くのであった。


posted by Riot at 20:08| Comment(5) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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