[PR] サメ軟骨 ザイン・ザイクス・株式会社シリウス・天業古代王朝の、核石・聖品・実態・体験談 〜zynekiller通信

2011年05月11日

「エゴ」について考える(2)

前回の記事の続き。


小島露観はエゴを滅ぼすことを主張するが、
その実、彼自身の主張や行いこそが「エゴそのもの」だというところまで書いた。


じゃあ、エゴとは一体どういうものなのか?
どういうときにエゴが出てしまうのか?

僕が考え抜いて、結論付けたことを、ちょっと書いてみる。


いわゆる「エゴ」って言葉の意味するものは、何か?
純粋な「自我」という意味合いではなく、
批判的な意味合いでこの言葉を用いるケースの場合…

他人への配慮に欠け、何がしかの苦痛を与えてしまう「自己中心性」

という風に、捉えていいと思う。

周囲のことなど省みず、人の心をざわつかせ、不快にさせ、悩ませ、苦しめる、
そんな自己中心的な心の状態こそが「エゴ」なのだと、僕は解釈している。

で、よくこういう「自己中」っぷりは世間において
しばしば批判され、なじられるものなのだが…

そんなありがちな批判じゃなくて、
「何故、人は自己中になるのだろう?」って根本的なところを考えてみたら、
僕は、ひとつの結論にたどり着いた。


心が痛むとき、人は、自己中心的になる。


人間は、心が大なり小なり痛みを感じて、感情が強く動いているとき、
他人の言動に対し、聞く耳を持ったり受け流したりするだけの心の余裕がなくなるものだ。

心のどこかが傷ついて、苦しくて、痛みを感じているとき、
他人を観察し、それを事実として受け取ることや、
他人のその考えや感情を汲み取ることを忘れてしまう。

そんなとき、僕らはつい、不快感や怒りや苦しみといった感情を露わにし、
一方的に自らの正しさを主張し、
自分を守ることや、他人の非を糾すことに躍起になってしまう。

そして、知らず知らずのうちに、

人や物事に偏見を持ち、誤解し、耳を塞ぎ、
誰かを押しのけたり、傷つけたり、
あるいは誰かに依存したり、過度の要求をしたり、してしまうのだ。


そもそも人間というものは、突き詰めれば、自己中そのものの存在だ。

元々僕らは、それぞれが、他ならぬ自分自身のために、人生を生きている。
そして、誰かと心が通じ合うことがあっても、
実際、その相手のことを100%理解することなんて出来ないし、あり得ない。

そして、昨日も書いたように、
人間ってやつは、生きている限り、
大なり小なりの、心の痛みから逃れることはできない。

悲しいことに、人間ってそんなものだから、
どれだけ努力しても、いつでもウキウキワクワクハッピーでいられるはずもない。
そして、心に十分な余裕がないときに、思慮深く物事を考えたり、誰かをいたわったり、
人の話をじっくり聴いたりすることは、とても困難なのだ。

きっと、あなたにも、身に覚えがあると思う。


要するに、エゴとは、

「心の痛みにより、人間の自己中心的な部分が強く引き出される現象」

(※そして、生きていく上で、心の痛みは避けて通ることができない)

だといえる。

ということは、「エゴを正す」ということは、

「心の痛みを認め、受け入れ、癒す」
「その上で、他者に目を向けていく」


ということではないだろうか…と、今の僕は考えている。


感情を爆発させたいという衝動に駆られるとき、
何かを強く否定したいとき、声高に主張したいとき、
それぞれ、色んな思いや考えがあるのだろうけど、
それを一旦、ちょっとだけ脇に置いて…

感情の揺らぎの奥にある
痛みを痛みと感じ、受け入れていくことで、
その心は癒されていく。

心が癒されれば癒されるほど、色眼鏡を抜きにして
他者を観察し、思慮深く接する、心の余裕が出てくる。

すると、色んな視点から物事を捉え、考えることができるから、
元々思っていたことや考えていたことが、ますます深みと説得力を増す。

つまり、だんだん、エゴから解放されてくる…というわけだ。


人から「エゴ」を無くすためには、本当なら真っ先に、
それぞれが抱える心の痛みを癒す必要があるのだ。

小島露観が特にそうであるように、
エゴを悪しきものと認識し、それを押さえつけるのは逆効果でしかない。
そして、痛みによって揺らぐ「人間の心の弱さ」を否定してかかり、
揺らがぬように強くあれ、と主張するのもまた誤りなのだ。

いわゆる「エゴ」の否定。
それは、人間という存在が持つ「ありのままの弱さ」を、
受け入れることができずに、軽視し、蔑視する人間の、浅薄な愚行である。

人間の持つ弱さを、
生きる限り常に感じ、抱える心の痛みを、
いくら力いっぱい否定してみたところで、それらは治まらないのだから。



…僕自身、とても弱い人間であることを自覚している。

僕の感情は、他人からみれば何でもないことを引き金に、しばしば揺れ動く。
すぐに傷つき、怒り、悲しみ、腹を立てる。
いつでも、冷静で思慮深く慈悲深くはいられないし、
知らず知らずのうちに、自己中心的になってしまうことも、まだまだ多い。

そんな自分を徹底的に省察した結果、

「エゴとは、心の痛みが引き起こす現象」

だという風に、結論づけることができた。



そして僕は、

僕自身の、
そして人間が普遍的に抱える

心の痛みを認め、受け入れ、癒すために、

必要なことは何か?
具体的、かつ効果的な方法は何か?

そういったことを、常日頃考え続け、試し続ける、
そんな日々を送っている。



…今回はいつも以上にとりとめもなく、
色々なことをだらだらと書いたので、
いつになく分かりづらく、抽象的な内容になってしまったけど、

それでも、僕が今考えていることのめいっぱいを伝えたくて書きました。
何か感じて頂ければ幸いです。



posted by Riot at 16:30| Comment(2) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

「エゴ」について考える(1)

身辺が色々落ち着かなくて、更新が止まっておりましたが…
久しぶりのブログの更新でございます。



今回は、前々から考えてみたい、語りたいと思っていたこと
「エゴとは何か?」
について、じっくり取り上げてみたい。


僕ら元会員は、小島露観が言う
「エゴを滅ぼした世界」に理想を見出し、ザイン(ザイクス)と深く関わってしまった。


自分達のことしか考えない、政治家、実業家。
自国の利益しか考えない、中国、アメリカ。
その裏にある、形而上学的なメカニズム。

そういうものを全てぶっ壊して、新たな秩序を築き上げることが
時霊の意志であり、その意志に沿う者には栄光と繁栄が約束される。

僕は、たとえ一時的にせよ、そんな小島の言い分を信じてしまい、
そこに希望と光明を見出し、軍士になった。

恐らく、軍士をやっていた経験のあるあなたも、同じだと思う。


しかし、辞めて、小島のルールから思いっきり外れた人生を生きている
今になって、ふと思ったこと。

小島露観は常にエゴを否定するが、

そもそも、エゴとは何なのか?
そしてエゴは、何故、どのように生じるか?


そういった定義づけや説明が、何一つ為されていない。

信じている人にしか通じない「神文学的な宇宙的メカニズムの説明」は
いくらでもあったのだが、もっと根本的で平易なレベルでの
具体的な説明は、全く為されていないのだ。

これは、おかしな話ではないか?


そんなわけで僕は、当時を振り返りながら、
小島露観の語る「エゴ」が一体どういうものかについて考えてみることにした。


まず…
僕も含めて、小島の「エゴを滅ぼす」思想に共鳴する人って、
家族や職場といった、自分が所属するコミュニティにおいて、
身近な他人に、心を傷つけられた経験がある人が多いのではないかと思う。

傍若無人な人間はどこにでもいるし、
それでなくても、知らず知らずのうちに人の心を傷つけてしまうことって、
悲しいけれど、よくあることだ。

人間は、良くも悪しくも、
他人の痛みを、自分の痛みとして感じることができない。

そして、現実的に考えると…
世の中を回していくためには、個人の都合なんて構っていられない…という
状況も、しばしばある。

小学校の道徳の授業で
「他人の気持ちを考えろ」なんて教わっても、

実際の現実は、他人の気持ちを考えることなんて脇に置かれて、
それぞれが、それぞれの言いたいことを主張し合ったり、
一方がもう一方に犠牲と忍耐を押し付けたりしている。

そういう現実に苦しみ、心が傷ついている人が、
「他人を尊重できないエゴだらけの周囲の人間」に嫌悪感を抱き、
小島露観の思想に共鳴してしまうのだと思う。


しかし、ザインと関わっても、僕らは幸せになることができなかった。
ひとつ言えることは…

僕らは

「誰かに尊重されたい」と期待し、

「他人を尊重できない人間を力いっぱい否定し、
 そして、お互いを尊重し合える世の中を築きたい」と願い、

小島露観に忠誠を誓ったと思うのだ。


ところが、小島露観は、

「自分のことばかり考える人間を力いっぱい否定する」のだが、

その次に言うことは、要するに、

「私に絶対の忠誠を誓え、そして私のために働け、金を出せ」である。


つまり、言い方を変えれば、
小島露観は、実際のところ、自分に絶対の信を置いてもらいさえすれば、

生活が苦しくなろうと、
心を病もうと、
どうなっても構わないのである。

そして、自分についてくる「心の傷ついた人間」の、
その痛みからくる依存心を、「ただの弱さ」「エゴ」だと切って捨てている。
彼ら彼女らの抱える痛みに対する憐れみやいたわりの気持ちなど、欠片も持たない。

その結果が…
多額の借金、心の傷、無駄にした時間(!)である。

(※時間の神についていった結果が、時間の無駄なんて…
  全く以て、悪い冗談である)


小島露観は、エゴを否定するが、

それは「自分の利益のために他人を踏みにじる者」に対する、
小島自身の自己中心的な感情であったり、

あるいは、自身に付いてくる会員に対して、
「自らの思考、感情、判断を捨て、俺に従え」という意味合いであったりする。


そして、小島露観自身の行動の動機を突き詰めてみれば、
エゴしかないし、エゴでしかない。

「時間の神の意志」を本気で主張すれば、
それはエゴでない…と小島は思っているのかもしれない。
だが、それは大きな間違いだ。

お釈迦様の教えを引き合いに出すまでもなく、
あらゆる人間は、生きていれば必ず、痛みや苦しみを味わうものだ。

世界を本気で良くしようと思うなら、
そこに生きる人間が普遍的に持つ「痛みや苦しみ」に、
何らかの手を差し伸べていくものだと思うのだ。

だって世界は、見方を変えれば、人間の集合体なのだから。

人間の「痛みや苦しみ」への理解なくして、世界は変えられないのだ。


小島露観の主張がエゴでなければ、
自分についていく者達の痛みや苦しみから目を逸らすことなく、
何らかの手を差し伸べるはずだ。


興味深いことに、小島は、
お気に入りの「波動受け」に対しては侍を気取って真剣に対するのだが、

その他会員の悩み事に対しては、内心で「下らない」とバカにしているし、

リンゴさんが「聞こえてきた声を解明して欲しい」と相談しても、
堂々とスルーする有様だ。


それどころか小島は、
「もっと苦しめ」と、会員をさらなるどん底に突き落とそうとする。


人間を、世界を良くしようと本気で訴える者が、
他人の痛みを平然と無視し、切り捨て、
自らの存在、およびその思想への絶対服従を、要求するだろうか?


どんな大義名分があろうと、

人間の抱える痛みや苦しみに、真摯に向き合おうとせず、
自分の理想や主張を押し通し、誰かをそれに従わせることに終始する生き方は、

他者に、いたわりではなく強制を以て相対する生き方であり、
それは、まさしく「エゴの生き方」そのものだと思うのだ。

(続きます)


posted by Riot at 12:13| Comment(2) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月14日

「原発」と「兎の眼」

今回の地震、津波、そして原発のトラブル、放射能漏れ。

1000年に1度というほどの、想定外中の想定外の天災。
そして、それらが引き起こした危急存亡の事態が、
こうして、現実に起こっている。

たまたま、僕は、被災することはなかったが、
だからといって、これらすべての出来事を「他人事」と
切って捨てることなんて、とてもできない。


特に、原発の放射能漏れ。
今、この瞬間も、懸命に注水作業に当たっているが、
今後、チェルノブイリのような最悪の事態にならないとも限らない。

また、関東〜東海地区に大地震が来たら、
今度は浜岡原発が大変なことになるだろう。

僕の命、僕の家族の命、
東日本〜中日本に住む、多くの人々の命が、
今なお、危機に晒されている。


そして、ここが肝心なところだけど…
元々、僕らはこういう「原発のリスク」の中にありながら、
そんなことは全く気にも留めず、日常を送っていたわけだ。

さらに、とりあえずの震災危機が去ったところで、
原発が未だそこにある…というだけで、
実際のところ、何らかの事故による放射能漏れのリスクは尽きない。


「原発なんて要らないぜ!」なんてことが言いたいのではない。
実際問題として原発は必要なはずで、ことはそう単純ではないはずだし、
そんな議論は、当座の危機を乗り越えてから、するものだと思う。


僕が感じていて、そして言いたいことは…

僕らの日常は、実際のところ、
吹けば消し飛ぶような、儚いものでしかなく

そして、これまで続いてきた「何でもない日常」は、
誰かの犠牲によって、成り立っている…ということだ。



不幸にも、震災や津波で命を失った方や、
被災地で寒さの中、避難生活をしている方からすれば、
「他人事の綺麗事」と思われるかもしれないが…

当たり前の日常なんて、こんな風にあっという間に
消し飛んでしまうんだな…ということを、
日が経つにつれて、思い知らされている。


生きてるだけで、緊張でハラハラする。
そして、僕も含めて多くの人の場合、逃げ場なんてどこにもない。


不謹慎極まりない…と思われる方もいるかもしれないが、

僕は今、
普通の日常を送りながらも、

人生をどう生きるか、
心の奥で、深く考えさせられている。


何でもない日常の、有難味が分かる…ということもそうだが、

僕がどうしても気になっているのは、
今、この瞬間も原発で作業に当たっている、名も知れぬ作業員さんのことだ。

彼らは、相当量の被ばくをしているはずで、
この先何年、生きていけるか…というところだろう。


そして、これまで原発で作業に当たり、
数々のトラブルに対処して、被ばくしてきた、
これまた多くの、名も知れぬ作業員さんのことを思う。

作業に従事した結果、命を落とした方も、大勢いるはずだ。


僕は、今になって、そうした人々の犠牲の下に、
今までの日常があったんだな…ということを思い知らされている。


そして、小学生のときに読んだ、灰谷健次郎の「兎の眼」の一節を、
ふと、思い出した。

ちょうど、この部分です


生きていると、悲しいことも、辛いこともあって、
ときには、死にたいと思うようなこともあるけれど、

それでも、
僕らは、
誰かの命を食べて、生きている。

僕は、弱くて、愚かな人間だ。
自分のことで精いっぱいなあまり、
平気で、誰かの命を食べて、生きてきた。

原発の作業員さん。
太平洋戦争で命を落とした人たち。
もっともっと昔に、数々の戦、天災、疫病で命を落とした祖先。

そんな、数えきれない人々の命を食べ、
さらには、我がまま放題に親の命を食べ、
僕は、こうして生きながらえているわけだ。

この事実から、目を逸らしちゃならない。

あくまでも個人的な思いでしかないけど、
そう、僕は、思っている。



誤解のないように書くが、僕は
「こういう状況だから、もっと自己犠牲の精神を持て!」なんてことを、
アホみたいに声高に訴えるつもりもない。


当たり前の日常が、当たり前ではないのだと気づいたとき、

今のところ、こうして、
ほぼこれまで通りの日常を生きている僕は、

結局のところ、日常を思いっきり生きるより他に術はないし、
そうするんだ、と、強く、心の奥で決意を深めている。


もちろん、今回の地震や津波は他人事じゃないから、
募金はしているし、今後も募金するだろうし、
節電にだって協力するつもりだ。


しかし、

不安、恐怖、悲しみ、哀悼、
ある種の自己犠牲を強いるような、そんな世間の空気に飲まれて、

今、僕がやりたいこと、為すべきことを、見失っちゃいけない。

他愛もないことで泣いたり笑ったりしながら、
この日常を生きてることが申し訳ない…なんて、思っちゃいけない。


危機なんて、実のところ隣り合わせであり、
誰かの命を食べて、こうして生きながらえている…という事実に目を背けず、

それでも一生懸命、今を生きよう。

だって、折角、生かされているのだから。

差し迫ったような、でもそうではないような
不安と恐怖で心をざわつかせながら、
そんな風に、僕は思うのだった。


posted by Riot at 19:48| Comment(14) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

全盛期

ザイン動画を見ていて、思ったこと。

カメラを前にして、かつて我々の前でそうしてきたような、
本気の、威圧的な態度で、

「私がナポレオン・ボナパルトだ!」 とか、
「中国はもう立ち直れませんね」 とか、
「裁判所に出るなら御の字ですよ 
 公的な場所で私自身の思想を語ることができる」
とか、

語っていたときが、小島露観の「全盛期」ではなかったろうか。


会社としての全盛期は、2000年前後くらいになるだろう。

しかし報道時の小島は、たとえ冷やかしだろうが批判的だろうが、
マスコミを利用してメジャーになってやろう! という「ザイン流軍学」的発想で、

「これぞ千載一遇のチャンスである!」と息巻いて、
カメラの前で意気込んで語ったんだろうな…ということが、
今になって、すごく想像できる。

小島露観が、あの時、

よし、これで俺もメジャーになれる!
これで我が世の春が来る!
今が人生最大級の晴れ舞台である!!


と本気で思っていたであろうことを想像すると、
何だかもう哀れすぎて、笑いが止まらない。

憎しみからバカにする…というよりも、
もう、ひたすらに哀れでしかないのだ。


…その後の結果は、読者の皆様のご存じの通り。

報道で動揺した、半信半疑の会員が次々に辞めていき、
世間からは「全裸SEX教団」とバカにされ、
小島は、一転して取材を受けなくなった。

それから5年が過ぎ…

引き合いに出したナポレオンを冒涜するような、
小島およびシリウス(地極産業)の
どうしようもなくお粗末な体たらく。

中国は立ち直れないどころか、未だに健在である。

裁判に関しては、顧問弁護士と契約する金を惜しんでか、
法律に詳しい事務員を、求人募集する有様だ。


あれからどんどん、押し売りや各種活動に
疑問を抱き、嫌気がさした会員が次々と辞めていき、
また、クビにさせられた会員が、
ネット上のあちこちで暴露情報を流したりしている。

そして、増える一方の
「ザイクスに批判的な元会員」は、裏で和気あいあいと結束を深めている。


小島露観は、法的においてはともかくとして、
もはや、かつての部下達に、完全に包囲された状況だ。

これが、かつて我々の前で、
そしてTVカメラの前で熱っぽく語った「世界戦略」だとするならば、
へそが茶を沸かすほど、可笑しくてたまらなくなる。


まっ、小島が我々にしてきたことを考えれば、
笑ってばかりもいられないのだが。

Riotとしては、まだ一仕事あるぞ…という感じで、
今後のザイクスの動向を、注意深く見守っていきたい。
posted by Riot at 19:02| Comment(8) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月20日

本気の感情が持つ恐ろしさ〜感情は共鳴する

前回の記事「リーダーについて考える」に関して。
頂いたコメントを拝見して、少し、考えた。

僕としては、いつものザイン批判とはまた違った内容を
伝えたかったのだが、なかなか思うように伝わらない。

僕が伝えたかったことは、こういうことである。

「本気って、恐ろしい」
「本気の感情が、時代の追い風を受けて広がった結果、会員が集まってしまった」
「でも、小島露観は結局無責任だから、この体たらくとなった」

でも、このテの話って、ホント残念なことに食いつきが悪くて、
そして、なかなかすんなりと伝わらない。

騙された悔しさを持つ人にしてみれば、
ザイクスのバカさ加減をネタにしたり、
連中の非を、一刀両断するような内容には
共感もするし、感情移入もして頂けるんだろうけど、

その一方で、
「何故、人は騙されるのか?」とか、
「何故僕らは、ザインに引っかかってしまったのか?」とか、
そういうことも、併せて考えていく必要がある…とも僕は思っている。

怒りを吐き出せるだけ吐き出しきって、
時間が経って、当時のネガティブな感情や記憶を忘れて、

それだけで、手放しで、めでたしめでたし…とは、僕には思えない。

ザインと関わった経験を通して、何らかの学びを見出さないと、
そのうちまた、何かの拍子に心が弱ったときに、

いたずらに感情的になったり、
ザインとは別の「僕らに不利益をもたらす何か」に引っかかったり、
今度は過度に、人や物事を警戒するようになったり、してしまうであろうから。


残念なことに、人間というやつは、
僕自身も含めて、
とても弱く、そして、どうしようもなく愚かな側面を持っている。

心は、何かあると常に揺れる。
そして、弱ったり焦ったり必死だったり、すればするほど、
人は、事の真偽を見抜けなくなり、判断を誤る。

そして、未来のために大事なことほど、
真剣に考えるのがどこか面倒くさくなったり、億劫になってしまったりする。


それでも、僕は敢えて、空気を読まずに、
必要とあらば、耳の痛い話だろうと、していきたい。

少しでも、同じような過ちを繰り返すことがなくなるように。



…と、前置きが長くなったが、
今回書く内容は「本気の感情がもたらすもの」についてだ。

結論から言うと…
本気って、伝染し、そして共鳴するものなのだ。


皆、小島や幹部連中の悪徳さ、非道さ、非常識っぷりに憤っている。

それは本当に良く分かるのだが、
じゃあ、なぜそんな悪党に騙されたのか?
冷静に考えてみれば、胡散臭い部分でいっぱいなのに…

その答えのひとつが、
『感情は、伝染し、共鳴する』という事実だ。

身近に楽しい人がいると、何だか楽しくなるし、
逆に、不機嫌な人がいると、イラッと来たり、落ち着かなくなったりする…という経験、
あなたも、したことがあると思う。

感情が伝染し、共鳴するって、そういうことだ。

その感情が、純粋であればあるほど、本気であればあるほど、
人に伝染し、強い影響を及ぼすものなのだ。



小島露観は、手段はどうしようもなくアレだが、
本気で、世の中を変えたいと思っている。

その動機には、
個人的な「サムライ趣味」「独裁帝國趣味」「エロ趣味」なんかもあるだろうけど
社会全体を見て、こんなことではいけない、
もっと、より良い世の中を作りたい、という思いも、確かにあったはずなのだ。

小島露観自身の、若き日の回顧だったり、
報道以前…特に2000年前後くらいまでの小島の言葉は、
実体験に基づく、強い本気っぷりが伝わってくるものだった。

汚い世の中を改めたい、
エゴ塗れの人間を一掃して、綺麗な心の持ち主が報われる社会を築きたい、といったメッセージ。
それは、小島自身の実体験を絡めた、本気のものであった。

冷静に考えれば、ザインには数々の胡散臭い点があったわけだが、
小島露観と同じように、世の中や周囲に疑問や怒りを抱いていた
かつての僕らは、小島の「本気」にほだされてしまい、
つい、その気にさせられてしまい、ザインと深く関わる羽目になってしまったのだ。

ザインが敢えて語らない「都合の悪い面」に目を背けず、
そこに疑問を抱き、考えていれば、後戻りできたのに。

共鳴する感情は、理性による疑問を、しばしば上回るものなのだ。


カルトとか、悪徳商法とかだけじゃなくて、
通常のビジネスのレベルで、しばしば、
そうした「本気の感情が持つ力」が使われている。

そして、僕らは日常茶飯事で、誰かの感情と響き合っている。

そのおかげで人生が豊かになることも、確かにあるけど、
逆に、そのおかげで、人生に迷うことだってあるのだ。

僕らは、より良い明日のために、
このことを、しっかりと知っていたほうがいい。

知っていれば、感情だけにほだされず、
言葉以外の「事実」を観察して、判断を下すことができるから。


本気の感情は、使いようによっては
人の本気や本音、良い面を引き出すことができるけど、

ひとたび使い方を誤れば、
人を迷わせ、判断を捻じ曲げるような作用をするものだ。


マザー・テレサの、
本気で、世界平和と貧しい人々への愛を説くメッセージと行動は、
人々に愛と平和を願う感情を惹起させ、
実際に、後に続く人を生んだが、

人民寺院のジム・ジョーンズは、
一連の行動とは裏腹に、本気で人種融和を口にし、
そして本気でトチ狂い、
その本気にほだされて最後まで彼についていった者達の殆どは、集団自殺を遂げた。

参考サイト


感情がもたらす力の大きさ。
そして、それがもたらす結果。

ザインから離れたからこそ、
一度、ちゃんと考えてみることが必要なんじゃないかな…と思う。


posted by Riot at 23:06| Comment(4) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月31日

2010年を振り返って

こんばんは、Riotです。
皆様、慌ただしい年末、いかがお過ごしでしょうか?
当方は、帰省してまったりと過ごしておりますw

今年は、ザイクス(株式会社シリウス)が
限界近くまで弱ってきているのを、まざまざと感じることができた、
そんな1年でした。

小島家長女が、twitterでさりげに漏らしていた本音。
恐らく、かねてより小島家が抱えていた問題であり、
組織の上層部においては、公然の秘密であったものと容易に想像できます。

この出来事が象徴するように、もはや小島露観のカリスマは微塵もなく、
とくにここ1〜2年の営業(集金)活動により、組織の体力、求心力は、
ガクンと地に落ちる結果となっております。

今年は、久々に「Riot」としての活動が
それなりに出来たかな…と思っております。

私・Riotは、その活動の集大成、および、
本当に困っている被害者のサポートをすべく、
来年、もうひと頑張りする所存です。

そんなわけで、年末のご挨拶と近況報告でした。
それでは皆様、良いお年を!

posted by Riot at 18:55| Comment(3) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月04日

反・恨・半(はん・はん・はん)

最近、僕の中で、ちょっとした発見があった。
ざっと書いてみると、こんな感じだ。

 自分の中に、ダメな自分と最高の自分がいる。
 両方とも、確かに自分であって、
 どっちかを肯定して、どっちかを否定しようとすると
 辛く、しんどくなって、うまくいかない。

 過去を思い出しては死にたくなる、ダメダメな自分と、
 未来を見据えて理想に邁進する、最高の自分。
 ダメな自分と、最高の自分が手を組めば、最強じゃん!


思いっきりマイナスな自分がいるから、
人生のままならなさが良く分かるし、
多少なりとも人の痛みを想像できる。

思いっきりプラスな自分がいるから、
未来に向けて、日々努力しようと思えるし、
実際に行動に移すことができる。

どちらかに偏ることなく、
両方の自分を活かせれば、
俺、最強(自分の中で、だが)じゃね?

…なんてことを、ここ最近、考えている。


で、ふと、ザイン時代に小島がよく言っていた
「正・反・合」という言葉を思い出した。

物質的、既成の正論的な「正世界」。
魔術的、非論理的、ある種の絶対性を持つ「反世界」。

剣を振り、儀式を受け、小島に臣従することで、軸線を通し、
この二つの世界を、ひとつにすることが必要なのだ…みたいな話。

でも、ザイン(ザイクス)って、正世界的なもの…
既成の価値観、社会常識、人間の持つごく当たり前な感情を
ことごとく否定しているよな、と思うわけだ。

小島は「正・反・合」なんていってるが、その実、

「反・反・反」

じゃないか、と、僕は思ったのだ。


…いや、反・反・反でも、ちょっと違う気がする。

反(=既存の価値基準に反抗・反発)
恨(=お隣の国の「ハン」、消え去ることのない情念)
半(=中途半端、皆様ご存知の通り)

で、

反・恨・半

が、適切なんじゃないかと、僕は考える。

シリウス社員を含めた会員の皆様も、
既にザイクスを離れた元会員の皆様も、

「正・反・合」という言葉を見たり、思い出したりしたら、

「反・恨・半」

に、置き換えて頂く事をお勧めする次第である。

posted by Riot at 19:38| Comment(5) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月11日

遺憾でイカンで、アロー返し

僕が、Riotをやっていて、
心が折れそうになる瞬間が、2つある。


ひとつは、僕とやりとりのあった人に
久し振りに連絡してみたら、つれない反応をされたとき。

こういうとき、僕は

「きっとこの人は、ザイクスを辞めるときだけ
 僕のことを利用して、あとはめでたしめでたし、なんだな…」とか、

「結局この人は、僕のことは『反ザイン』としてしか
 認識してなかったんだな…」という風に、すごく思えて、

ものすごーく、淋しい気持ちになる。

(こないだのアンケートのときなんか、
 まさに、そういう気持ちになった。
 そういうときに、僕は自分のことを「人身御供」だと思うのだ)

勿論、相手には相手なりの事情があるし、
相手にとっての僕は、きっと実生活において、
それほどの価値もない人間だったんだろうから、

割り切れない気持ちを、2〜3日かけて、
まっ、仕方がないか、と、どうにか割り切っている。

一旦冷静になれば、
「まっ、人の縁はお天道様がどうこうするものだから、
僕がジタバタしても、しょうがないか」と思うのだが、

それにしても、こういうことでジタバタもがいて悩む自分は、
まだまだ青いよな…なんて思って、思わず苦笑してしまう。


で、もうひとつ、Riotをやっていて心が折れそうになる瞬間。
これが、今日の本題だ。

ザインに対する怒り、復讐心、恨みつらみを僕にぶつけられたとき、
僕は、正直、心が折れそうになる。

僕自身は、ザイクスに対する怒りや恨みつらみは、今は全くない。
個人的な復讐…というレベルでは、充分すぎるほど、
これ以上ないくらいに、やり返したと思っている。

僕自身がザイクスに怒りを抱いているのであれば、
「そうだそうだ! アイツら、地獄に落としてやろうぜ!」とか、
一緒になって怒りまくれるのだが、

そういう怒りの感情が、僕の心にもグサリと突き刺さるような感じで、
どうにも、辛いのだ。

多分、怒りをぶつける先が、僕のところくらいしかないのだろう。
できることなら、その怒りを受け止めてあげたいのだが、

一緒になって怒ってくれ、とか、
ザイクスを潰すために、自分の代わりに闘ってくれ、とか期待されると、
正直、とても辛いし、

怒りを煽るような書き込みを、ネット上で見ると、
やはり、胸が痛む。

怒っている人も、きっと辛いのだろう。
それは、分かる。
怒りの中には、必ず、どうにもならない悲しみがあるのだから。


ザイクスのやっていることは、確かに許せないことだし、
今後ザイクスそのものがなくなったとしても、
決して「なかったこと」にはできないことだと思うが、

それと、怒りに任せてザイクスを攻撃することは、
まったく、別のことなのだ。


何度か、僕のブログで誰かが書き込んでくれたり、
そういうメールも頂いたりするのだが…

「最大の復讐は、あなたが幸せになることである」

本当に、そうだと思う。


で、より具体的な話に入るのだが…

あまりにも強い怒りや悲しみの感情は、心から幸せを遠ざける。

ちょっと冷静になって想像してみれば、簡単に分かることだけど…
怒りまくっている人が、はたして幸せそうに見えるか?
一緒にいる周りの人が、安らげて、安心できるか?

強い怒りや悲しみ、抑え切れないのは、本当に良く分かる。
だけど、その感情に流されてしまうと、

「将来、こうなりたい自分」とか、
「本当は、楽しく毎日を過ごしたい自分」を、見失いかねない。

それは、とても、悲しいことだと思う。


で、そういう強い「怒り」や「悲しみ」に、どう対処したらいいか?

僕は、対処法をいくつか知っているが…
その中で今日は、「アロー返し」というやり方を、ここで紹介したい。

あなたの感じる、怒りや悲しみ。
それは、心に、ズブリと深く、矢のように刺さっている。

…もしかしたら、刺さっていないかもしれないが(苦笑)、
とにかく、刺さっていると、イメージしてほしい。

その刺さった矢を、胸から、むんずと引っこ抜き、
お天道様に向かって、「えいっ!」と、投げ返してみよう。

あなたの心が、ラクになるまで、
胸に刺さった矢を、これでもかと、天に投げ返そう。


ただし、ザイクスとか小島さんとかに投げ返さないように。
人を呪わば穴二つ。
わざわざ、あの人たちと同レベルに、自分から落ちる必要はないでしょう。

投げ返すのは、あくまで、天に。
それで充分ラクになれるはず。

ザイクスへの怒りが収まらないあなたに、
ぜひ、お試しいただきたい。

(お試ししたら、感想頂けると、とても嬉しいです)


posted by Riot at 20:04| Comment(10) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月06日

Seraphic Blue

「KANBANは」さんのところでコメントを書いたので、
こちらでも、ちょっと話題にしてみる。

僕は、「Seraphic Blue」というゲームが好きだ。
確か2003年に発表されたもので、ジャンルはRPG。
RPGツクールで作ったもので、DLしてPCでプレイするフリーゲームだ。

このゲーム、世界観が何とも言えずダークで、
どこまでも救いがないというか、虚無的というか…

具体的には、
主人公は、世界を救う存在として生まれたのだが、
その使命を投げ出すことなく全うするため、
感情を持つことを否定され、道具としての生き方を刷り込まれてきた。

主人公は、「使命に殉ずる」以外の生き方を周囲から否定され続け、
同時に自らも、それ以外の生き方を想像すらできず、
ひたすら機械的に、そして時には自虐的なまでに、
世界を滅ぼさんとする勢力との戦いに身を投じていく。

かいつまんで言うと、こういう話なのだが…
この主人公、「世界を救うという使命を果たすこと」以外に
生き方を知らず、そこから逸脱することなど考えられないでいる。

そんな主人公を見て、ある人は「飛べない翼の天使」と揶揄し、
また別の人は、「ショーシャンクの空に」で、出所した後
世間に自分の居場所を見出せずに自ら死を選んだ老人を想起する。


これ…
何だか、今、ザイクスを信じてる人と、どこかダブるのだ。

信じたいものを信じられず、
自分で選びたいものを「エゴ」と否定され、
使命と秩序の名の下に、非道を強制される。

そして、それが「当たり前」になっていて、
そこから抜け出すことが内心、とても怖いのだと思う。

でも、ザイクスの外にも、世界はある。
そして、世界は、果てなく広い。

波動と、金策と、報告書と、剣と、屈従の世界を離れれば、
そりゃ、色々と辛いこともあるだろうけど、それ以上に、
こんなにも色んな楽しみがあり、色んな人がいるんだな…ということが、
身に染みて分かるはずなんだ。

世界はきっと、誰かさんが言い出したご立派な使命感と妄想でできたような、
つまらなくて、ちっぽけなもんじゃない。

だから、やめちゃえば、ザイクスなんて。
あなたは、飛ぼうと思えば、籠を飛び出して、
いつでも自由に飛べるのだから。


…と、現役会員さんにメッセージするついでに、

このブログを読んで下さるあなたにも、
Seraphic Blueを、軽くオススメしてみる次第である。

・歯ごたえある戦闘が好き
・でも、一時期のFFみたいに、弱点突けばスカッと敵を倒せるのが好き
・グロ画像に多少の耐性がある
・「臨場感を凌駕してリアルにおいて反映実現される、有質量の全ての結果」みたいな
 くどくてクセのあるテキストを読んでも、不快にならない

↑こんな人には、オススメできる。

ストーリー、確かに陰惨だが秀逸、最後は結構、じんわりと感動できる。
そして、伏線が張られまくった「世界の謎」が、見事なまでにきれいに
解消されていくのも、爽快というか、一種の感動を覚える。

逆に、猫好きには、どうしてもお勧めできない…
どうしてもムゴいシーンが、何回もあるのだ。

ものすごーく人を選ぶゲームなので、敢えてリンクは張らない。
ググッてみて、その後のことは、自己責任でどうぞw


posted by Riot at 21:25| Comment(5) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月29日

「頼ること」「甘えること」「依存すること」の違い

前回の記事で、僕は
「頼られるのは好きだが、寄りかかられるのは嫌い」と書いた。

コメントを頂いたので、それにレスするような気持ちで、
「頼ること」と「甘えること」と「依存すること」の違いを書いてみようと思う。

頼ること、甘えること、依存すること。
どれも、人の力をアテにする点では一緒だけど…

誰かに甘えてる場合は、人が好意的に何かをやってくれるのを、
心のどこかで、アタリマエのように思ってしまっている。

誰かに依存している場合は、人が自分の欲する何かを与えてくれなければ
自分の抱えている問題は解決できない…と錯覚してしまっている。

そして、「頼ること」と「甘え」や「依存」の決定的な違いは…

「甘え」や「依存」の状態にある人は、
してもらったことへの、感謝の気持ちがない、もしくは薄い


ということである。

誤解のないように予め書くが、僕が恩を売りたいというわけではないし、
甘えや依存の状態にある人を批判したいわけでもない。

「甘え」や「依存」の状態のときって、心と身体にエネルギーがないから、
感謝しようにも、その気持ちが表現できなかったり、
自分がまるで被害者であるかのように感じてしまっていたりするのだ。

心身を休めたり、生活の中で心身を動かして活性化させたりして、
そういう「心の頑固な凝り」をほぐしていけば、
誰かに甘えたり、依存したりするのがどんどんバカらしくなってくる。


そして…あなたが、

人の好意を当たり前だと思わず、
自分でできると思ったことにどんどんトライして、
誰かにしてもらって助かったことに、素直に感謝できるなら、

むしろ、人を頼ったほうがいいと思う。

それは、甘えでも依存でもないのだから、何も躊躇うことはない。
皆、頼ることと、「甘え」や「依存」との線引きができていないから、
人に頼ることが上手くできないんじゃないかなーと思うのだが、いかがだろうか?

人の力は、借りられるものなら、進んで借りたほうがいい。
そして、自分に余裕があるときに、今度は誰かに力を貸せばいいのだ。

僕自身、人に頼るのは苦手なほうだったけど、
最近、それじゃいけないな…と深く気付かされている。

「頼ること」=「甘え」「依存」とみなされがちな、今の余裕のない世の中。
こういう助け合いや、それによるお互いの協力とか成長といったものは、
昭和時代に置いてきてしまったのだろうか、と、少し切なくなる昨今である。


posted by Riot at 23:09| Comment(8) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月24日

『頼られること』と、『寄りかかられること』と、消えないためらい

2chにあった、このカキコ。

Riotさんとこに助けを求めてくる人は地極産業に文句ばかり言ってRiotさんに頼りきって「応援してます。頑張って下さい」ばかりだね。
頼られてRiotさんは気持ち良いのか?
やめた会員さんも一時期はRiotさんに頼っても仕方ないと思うけど精神的に全部頼るのはどうなんだろか?自分に出来ることをしてないんじゃ?結局は地極産業に頼っていたときと同じじゃないか?Riotさんをヒーローに祭り上げて。


今回は、このカキコにレスするような形で、記事を書いてみようかなと思う。


実は、頼られるのは好きだし、すごく意気に感じる。
昔むかしのロボットアニメじゃないけど「やってやるぜ!」と思うし
僕のこれまでのRiotとしての経験や知識を引っ張り出して、頭をフル回転させて、
それに応えよう! と思う。

僕個人のことを振り返ってみると、きっと「誰かに必要とされたい」願望が強いのだと思う。
だから、そうやって声をかけられると、心に火がついて「頑張ろう!」と思うのだ。

その一方で僕は、「寄りかかられること」が嫌いだ。

「頼られること」と「寄りかかられること」のどこに差があるかというと…

僕を頼ってくれる人は、僕との接触をきっかけに、具体的なアクションに結び付けてくれるけど、
僕に寄りかかる人は、僕と接触しても、
ザイクスへの恨み節と自分への言い訳を繰り返すのみにとどまる。

昔のイウンマ氏のように、ザイクスへの愚痴を延々と並べて、
こちらが背中を押してもアクションを起こさない人に対しては、
さすがに、いい気分ではいられない。

あれだけひどいことをしている団体だ。
それに、僕くらいにしか、その愚痴を話せる人はいないのだろうとも思う。
だから、愚痴りたいのは、よぉーく理解できる。

でも、愚痴を吐き出した先にあるものが、気持ちの整理じゃなくて、
「自分は悪くない、アイツらが全部悪い」だけだったら、
僕とやりとりした時間は、きっとお互いのために有意義ではないと思う。

どれだけ僕が親身になって話を聴き、アドバイスしても…
ザイクスを辞める決断をするのも、
ザイクスと精神的に縁を切るのも、
最終的には、その人自身が、しなければいけないことだ。

僕は、話をじっくり聴いて、理解に努め、そして背中を押してあげるしかできないのだ。


で、これは相談者の名誉のためにも、
僕の側から見た事実(僕が感じているだけ…かもしれないが)を書くが、
意外と「寄りかかるだけ」な人はいないものだ。

特に、ここ数年は、本当にそういう人からの相談がない。
だから、話を聞いていて内心でイライラする…なんてことが、今はとても少ない。

でも、気になることも。
たまに、僕が直接アドバイスしても、実際に動かない人もいるのだ。

後から、実際にアクションを起こさなかったことを知って、
「えーっ、折角アドバイスしたのに」と、すごく残念に思うんだけど…
でもその一方には、ちょっと冷めた僕がいて、「しょうがないかな」とも思っている。

僕も含めて、人間はとても弱い生き物だ。
精神がヘタッてるときは、多少依存的になったり、
必要な行動がとれなかったりするのは、むしろアタリマエだと受け止めている。

だって、気分が優れないとき、落ち込んでるときには、ほとんどの人が現実逃避するじゃん?
やらなきゃならないことは別にある…と分かっていても、
テレビやネット、お酒などに逃げてしまう…なんて経験を、きっと、あなたもしているはずだ。

現役会員ではない元気な僕らでさえ、弱ってるときは、こんな風に現実逃避をする。
弱りきっている人であれば、なおのこと、そうだと思うのだ。



そもそも人間って…

現実をどうにかするために必要だと分かっているけど、
それがなかなか行動に移せず、焦ったり、何となく言い訳して自分自身を騙したりする。

そして、必要なことであればあるほど、それに向き合えなくて、
勇気よりも、不安や恐怖が先んじてしまう。

例えば、
借金を抱えているのに、パチンコがやめられない。
好きな人がいるのに、話しかけることができない。

人間って、そんな弱さを抱えた生き物だと思うのだ。

今の日本は、中途半端に恵まれているから、
現実を多少無視しても、明日のご飯には困らなかったりする。
現実を変えるために行動しない=命が危ない、というわけではないから、
こういうことになってしまうのかな…とも思うのだが、

ともかく、人間という生き物は弱いものだ。

それを織り込んだ上で、僕は連絡をとって下さる方に接する必要がある。
いつも、僕はそう考えてる。



あと、行動を起こせないことなどについて補足。

こないだ、ある元会員さんと話をしていて、指摘されて気付いたのだが…
僕に変な遠慮をして、何となくビビッて、コンタクトをとらないケースもあると思う。

でも、僕は上記の通り、頼られると意気に感じるタイプだし、
そもそも「人は弱い生き物である」という思想・発想のもとに動いているから、
そこは全然気にしなくてOKだ。

安心して、お気軽に、連絡をとってもらえたら…と思う。

posted by Riot at 10:43| Comment(14) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月14日

自分で決め、それを守り続ける

よぉーくこのブログを覗いて下さる方は、既にご存知だと思うが…
僕は、とてもヘタレで、とても弱い人間だ。

何かの拍子で、深く傷つく。
他人が羨ましくなる。
自己嫌悪に陥る。
生きていてはいけない人間…だと、自分を責め苛む。

子供の頃から、デリケートな性格だった。
幼き頃は「大人になったら、もっと強くて立派な人になれるはずだ」と
うっすらとした希望を抱いていたのだが、
この歳になっても性格の根本は変わらないらしく、
「3つ子の魂百まで」って本当だったんだなと、今になって苦笑している。

で、僕が今回、記事にしたいのは…
自分のダメさ加減を語るためではなく、
自分が何でダメなのか、どういうところでダメだったのか、
考えて、考えて、分かったことを語るため。
そして、読んでくれたあなたとその気づきをシェアするため、だ。


僕が深く傷つくときを思い出して、その理由を考えてみた。

「自分が、自身の期待通りの自分ではないことを思い知らされたとき」
「自分が、批判・否定されたと感じたとき」
「僕の言動が、心ならずも周囲に悪影響を及ぼしていることを認識したとき」
「自分が、周りと自分を比べて、劣っていると痛感したとき」

もっとあるだろうけど、まぁ、今すぐ挙げられる点といえばこんなところだろう。

そして、あなたも同じようなことで、傷ついたことがあるんじゃないかと想像している。
傷つくツボは人それぞれ違うだろうけど、その根元は多分、みんな一緒だと思うから。


で、僕自身のことを、恥も外聞も捨てて書いてみると。

僕は、ザイクスを辞めても、幸せな人生を歩んでいるわけじゃない。
大々的な成功とまでは言わない、一般庶民レベルのささやかな成功すら手にできていない。

ちゃんと正社員として勤め上げて、会社の中でそこそこの地位があって、
ちゃんと結婚できて、子供がいて…みたいな人や、
そういう生き方を是としている人から、

「どうしてそういう生き方をしてるの?」みたいなことを言われたり、
そういう、まっとうな生き方で幸せを掴んでいる人を見たりすると、

自分がいかにダメな生き方をしてきたかを思い知らされるようで、
とても、とても、惨めな気持ちになるのだ。

もう、自分を、生まれてきてはいけない人間で、
世の中の役に立てない、社会にとって員数外な人間だと、自己否定するしかなくなる。

歳を重ねるにつれて、そういう自分が本当に情けなくて情けなくてたまらなくなる。
社会の中の自分の位置を思い知らされるたびに、そういう救われない気持ちになる。

こういうことを言うと、必ず「自業自得」「自己責任」とのたまう輩が現れるのだが、
そんなことは、当の本人が百も承知である。
だからこそ、その悩みは何倍にも深くなるのだ。


散々、自問自答した。

自分はダメ人間なのか。生きていてはいけない人間なのか。
ただ、自分がそう思っているだけではないのか?

自分が「そう思っているだけ」だとしたら、
そう思わなくなるようにするには、どうしたらいいのか?

そもそも僕の理想の自分、心の中で声を上げる自分は、
「正社員になりたい! 世間並みの幸せを掴みたい!」というものなのか?


で、改めて思ったのだが…
僕は、やはり、何かを表現して、人様の助けになって、それで生きていきたい。

誰かに、とりあえずの自分の地位と安全を保障してもらうかわりに、
知らず知らずのうちに誰かの顔色を伺いながら、生きるのは嫌いだ。
生きるために、誰かの下で、これまで働いてきたけど、
それでも、僕が僕を活かす場所は、どこかの企業じゃないのだ。

世間の基準、社会の基準からみたら、愚かな選択だと自分でも思う。
僕自身、何度も自問自答した。

「俺が、間違っているのではないか?」と。

でも、たとえ間違っていたとしても、
僕は、僕の旗を立てて、これまでの僕と同じようなことで悩む人の立場に立って、
共感し、寄りかかられない程度に支え、助言し、勇気付けて、
そうやって生きていきたいのだ。


ちなみに…
僕は、Riotとしてやっていることには、誇りを持っている。

でも、まさしく現金な話、身も蓋もない話だが…
Riotをやることで、僕は対価を得ているわけではない。
Riotをやることは喜びだが、「社会の中で生きていく自分」を考えたときに、
僕自身を満たしてくれる行為ではないわけだ。


多分、世間一般でよしとされている生き方では、
僕の望みが達成されることはないし、
心から喜べないし熱くもなれないし、
どこか窮屈な生き方を強いられることになることは目に見えている。

僕には、自分の生き方を、「こうだ!」と決めて、
それを日々、自分に擦り込ませる必要があったのだ。

どんなに強く決心したとしても、
その場限りの決心だけだと、やはり人は揺らぐ。
何かあったとき、どうしても、他人と自分を比べて落ち込んでしまう。

世間一般に合わせなければ、世間から認められなければ、
自分の存在価値なんてないのではないか…という、
無意識の恐怖に襲われる。

だから、一度決めたら、その決心を深いところまで落としこみ、
より深く、強い決心にする必要があるのだ。


そんなことに気付いた僕は、改めて、
自分の決心を、日々、もっと、もっと深くすること、
そして、いい意味で、人の話に耳を貸さない(=聴いてるふりだけ)こと、
この2点を心がけるようになった。

自分の決心とか、心の奥にある本音とか志とか、
そういうものは、結局のところ、自分で守るしかないのだ。

そうすることで僕の中には、一段と勇気と熱意が湧いてきた。
世間と自分を比べて迷い悩み苦しむ気持ちを凌駕するほどに、
日々、クレイジーに、熱くなっている。

誰かに共感してもらうこと、理解してもらうことで、
勇気付けられることも、もちろんあるだろう。
でも現実は、誰かに心を折られそうになることのほうが、圧倒的に多いのだ。


本当の意味で自分を守るためには、世間一般の価値観に倣うのではなく、
自問自答を繰り返し、本気になって自分で、
どう生きるか、物事をどう受け止めて解釈するかを「決め」、
その決定を、日々、守り続ける必要があるのだと思う。

でないと、無意識のうちに、
誰かに悪いほうに、影響されてしまうから。


さて、取ってつけたようにザイクスの話をするが…
そもそもザイクスでは、世間の価値基準と自分を照らし合わせて
自己嫌悪してる、そういう人をターゲットに、

「自分で決める」=「エゴ」=「幸せの放棄」という、
アタマの悪い、根性の悪い、ものの見方を押し付けて、
さらに脅して商売するというやり方をとっている。

たとえ常識に照らし合わせて間違っていたとしても、
自分の本心(=表面的な感情ではない)に従って、
自分で決めた生き方、自分で決めた選択でない限り、
人は、幸せにはなれない。

もし間違っていたとしても、本気になって自分で選択したことなら、
傷ついた心を癒すだけの時間と自問自答を重ねていけば、
それはやがて、ものすごく深い学びになるのだ。

世間と自分を比べない生き方を標榜して、
自分で決めたことを応援するどころか否定し金をむしりとるザイクスには、
もはや、善意の欠片も感じ取ることができない。


色々、グダグダと書いたが…
結局、言いたいのは、

幸せのかたちは、自分で「決める」ということ。
そして、決めたものがブレないように、日々を過ごすこと。

これが、僕自身に、
そして、自分と他人を比べて落ち込んでしまう人に、必要なことなのだ。

と、こういうことである。
posted by Riot at 21:09| Comment(3) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月03日

生きることに 君がおびえぬように



微笑ましく、そしてどうしようもなく切ない曲。
こういうの、好きだ。

posted by Riot at 20:31| Comment(1) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月02日

小島露観と中国

2chで、小島露観が中国を敵視してる件について書かれていたので、
今回は、少しばかりその話題を。

僕も、ザイクスの中では「中国のスパイ」呼ばわりされているらしい。
まいったなぁ、僕には中国人の知り合いなんていないぞ?

僕の人生でこれまで出会って、少しだけ仲良くなった中国人といえば、

大学時代に出会った留学生の「ダンさん」
(彼は来客にいきなり「赤マムシ」を振舞う)と、

結核で入院したときに出会った、研修生の「チョンミンミン」
(彼女は病院食に豆板醤をかけて食べる…スゲェ…
 その豆板醤、看護師さんからダメ出しを受けてしまった…
 あと彼女には、簡単な中国語の単語を教わったりしたなぁ)、

同じく研修生の「リューさん」くらいだ。

中国の人って、一癖も二癖もあるような気がするw
あくまで僕の主観だけど。

で、こんな僕がどう中国相手にスパイをやろうというのか?
小島さん、ご飯に豆板醤をかける以上に奇特で唐突な妄想だな…と
今更ながらに思う。


そういえば、資料を見てみると…
昔のザインでは、昔の中国を礼賛してて、
今ほど中国敵視を前面に押し出してなかったはずなのだ。

オウムとかに次ぐ、新たな仮想敵なのか?
小島個人の思想として、右寄りの思想的に「鬱陶しい」と
思ってるだけなのか?

まっ、そんなところだろう。

小島露観は、ものすごく猜疑心が強いので、
全てが敵に見える、人を信用できないという面があるのだろう。
自分が「全てを敵として見る」から、周囲や部下、顧客にまで
その「ものの見方」を押し付けたがる。

ダセーな、そういうの。

全てを敵に回して、どう生きるというのか。
周囲の人の温かさとか、そういうのを否定して振り払い、
殺伐とした気分で生きるということが、「人生を戦う」ということか。

敵がいなければ、自分の思想を主張できない時点で、
その思想は薄っぺらいものだと思う。
敵がどうこう、波動がどうこう言っていても、
その足元を見ることも、大切にすることも疎かにしている時点で、
人の運命を云々言う資格はないんじゃないだろうか。

中国を糾弾する前に、今の営業をやめさせるほうが先でしょ?
小島さん?

posted by Riot at 18:25| Comment(12) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月24日

キャバクラです

こないだ、元ザイン(ザイクス)の方々とオフ会をやりました♪
今回は、当方のところに遊びにきてもらって、色々駄弁って楽しかったんだけど、
その中でひとつ、ちょっと面白いものを思い出したので、
とりとめもない記事にしてみます。

昔のザイン資料を色々見ていて…
昇降格者関連の資料を覗いていた、オフ会参加者の方が気付いたのだが、

「退国の理由:
 キャバクラにハマっていて、
 総帥をとるか、キャバクラをとるかで、
 『キャバクラです』と即答したため」


あー、こんなのあったなー。懐かしい。

「でも、今となっては、すごく他愛無い退国理由だよね。
 今はもっと、状況がひどくなってるもん」

と、その方は言葉を継いだのだが、まさに同感だ。

今、そんなことを言えば、社員連中は怒り狂って罵詈雑言の嵐だろうな…
そもそも、ザイクスの支払いをブッチして
キャバクラ通いに明け暮れるような人は、既に在籍していないんだろうな…

今のザイクスの状況を知っているからか、
「キャバクラです」と答えた彼が、ある意味、格好良く思えてならない。


ザイクスの連中って、小島の教えに従うと誓言した人間、
ザイクスのシステムに属している人間に対してしか
語る言葉を持たないし、コントロールできない。

「お前等なんか大事じゃねーんだよ、他にもっと大事なものがあるんだよ」と
断言してしまえば、昔も今も、それ以上の慰留や脅しをかけてくることはない。

そう言って辞めるのは簡単だが、今はゼニカネが絡んでいるケースが多いので、
状況は一層困難なものになっている。
なので、僕は、状況によっては法的手段をとることを勧めている。

法律の知識のある事務員を探しているあたり、
既にあちこちから裁判を起こされていると見て、間違いはないだろう。


それにしても…
ザインに金を落とすのも、キャバクラに金を落とすのも、
無駄遣いという点では変わらないかもしれないが、
キャバ嬢は「脅し営業」なんてするはずがないだろうから、
債務整理とか自己破産とかに陥ることもないはずだよね。

男の気を引くキャバ嬢も、ある意味罪深いが…
「願望成就」が、いつの間にか「親を騙してでも金作って来い」に
すりかわってるザイクスの罪深さとは、比べ物にならない。

posted by Riot at 05:45| Comment(14) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月05日

化学変化とRiot

あー、またワケの分からないタイトルになってしまっているのだが…
最近考えていること、
そして、ずぅっと考え続けていることについてグダグダと書いてみる。


最近の僕のキーワードは「化学変化」。
理科の実験で、銀を火で炙って酸化銀を作ったりする…とかいうアレだ。

どういうことかというと…
人間って、自分ひとりでは成長できないな、とつくづく思うのだ。

自分の問題をひとりで抱え込んで考えているときって、自己完結してしまうから、
不安や恐怖を感じたときにそれが膨れ上がって、
迷ったときにそこから出られなくなってしまったり、
ヘンに頑固になってしまって人の意見を取り入れられなかったりして、
ずっと、そこに留まってしまいがちなのだ。

(何度も言っていることのような気がするが…
 ザイクスみたいな手合いに引っかかるときって、
 そうやって悩みの中で自己完結してしまうときなのだと思う)

自分の精神を熱く刺激してくれるような、
いろんな人や、webサイトや、本や、出来事に出会い、
その中で、色々気付いて、考えて、

ときには考えを外に向かって表現したり、
実際に行動したりしてみることが、
すっごく大切なんだな、と、しみじみと思うんだ。

自分ひとりのワクをぶち破れば、もっと色んなものが見えて、
もっと色んなものの面白さを感じることができて、
自分が何をしたらいいかが明確になって、
思考や行動が変わっていって、

もっと熱く、生き生きと、
毎日を、人生を生きることができるんじゃないか。

ワクをぶち破るためには、
やっぱり「自分以外の存在」が必要なんだよね。

自分以外の存在という「触媒」に触れて、刺激されて、
熱くなったり、クールになったりしながら、自身が変わっていく。
これって、あの「化学変化」じゃね?

自分以外の、色んな人や物事に意識的に触れて、
僕自身が、良い方向に「化学変化」していくことが必要だし、
そうありたいと思って、今、毎日を過ごしている。


で、
この「Zynekiller通信」や、
「ザイン帝國の真実」の話になるのだが…

僕は、2006年にサイトをリニューアルしたときから、
何度か「考えることの大切さ」を訴えてきた。

考えなければ、同じ過ちを繰り返してしまうんじゃないか?
ふとしたきっかけで、別の種類の誘惑に流されたり、
立派そうに見える誰かの思想や意見を鵜呑みにしたりして、
自分の中にあるものを見失ってしまうんじゃないか?

そういう危機感が、僕の中にはあるのだが、
僕の考えている問題意識が、
あまり読者の皆さんに伝わっていないのかな…と思うのだ。

あなたにとっての僕は、一体どんなだろう?

あなたにとっての僕は「アンチザイクスの旗頭」で、
ザインの悪辣さを不特定多数に訴えるだけの存在、
ザイクスを辞めたい人の駆け込み寺、
誰かの、ザイクスによって与えられた
積年の苦しみ悲しみを代弁するだけの存在でしかないんじゃないか?

誰かの代わりに、ザイクスと戦って、
辞めたいという誰かの背中を後押しして、
誰かの不平不満を代弁して、

その誰かの気が済んだら、その時点でお役御免。

これまでの僕は、
そして今の僕は、人身御供なのかもしれない。

ブログに頂いたレスを読んだり、
直接ご連絡を頂いた方とやりとりしたりしていて、
こんなことを、自分自身で思ってしまうことがあるのだ。

この活動を続けることで、僕は、自分自身の自尊心を傷つけているんじゃないか。
そのことが辛くて、僕は、Riotを辞めたい…と皆にこぼした。

今、振り返ってみると…
僕の「共に考えよう」というメッセージが、
読者に充分届いていなかったことが、辛かったのかな、と思えるんだ。

だから僕は、ザイクス云々に囚われない、こことは違う場所を設けて、
「人として、色んなことを共に考えて、成長していける場」であったり、
「考えられる人間になるための、ノウハウやスキル」といったものを
模索し、構築していきたいと考え、行動している。

(近々、その成果を披露するつもりだ)


だけど…やっぱり。

僕のサイトやブログにアクセスしてくれるあなたにも、
ザイクスの悪辣さにとどまらない色んな事について、
考えてもらえたらな…という思いを、

僕は、捨てきれない。

僕の感じていることは勘違いで、
僕の考えていることは独り善がりなのかもしれないけど、

それでも僕は、あなたと一緒に、
考えて考えて考え抜き、意見を交換し合って、
あなたと一緒に、成長していきたいと、素直に、思っている。

それはきっと、本質的な意味で、
お互いのためになると思うんだ。

僕は、使い捨てられる人間ではいたくない。
僕は、一方的に誰かを救済するだけの存在じゃない。
僕は、あなたの怒りや悲しみを代弁するだけの存在じゃない。

ワガママでウザいかもしれないけど、敢えて僕は、
勇気を出して、ここに本音をぶつけてみる。

僕は、あなたと、化学変化を起こしたいのだ。

僕のサイトやブログは、
ザイクスの悪辣さを伝えるためだけにあるわけじゃない。
読んだ人が、そして僕自身が、色んなことを考え、
そして成長する「きっかけ」として、存在しているのだと思っている。

だから、これからも僕は、大人気なく、
(だいにんきなく、じゃなくて、おとなげなくw)
可能な限り、正直な本音を書き綴っていこうと思う。

ときには、あなたにレスやメールをもらうことを意識しながら、
今よりも二回りくらい謙虚に、あなたの意見を聴くように努めながら、

一方的なご高説開陳じゃなくて、あなたと「やりとり」をできるように、
もっと、心がけていこうと思う。

だから、
あなたにも、ザイクス絡み以外に、もっと思ったこと、考えたことを、
僕にぶつけてほしいな、なんて思うのです。

押し付けがましかったなら、ごめんなさい。
でも、これが僕の本音です。

posted by Riot at 16:21| Comment(18) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月13日

愛と勇気は言葉 感じられれば力




ベタベタなアニソンなのだが、僕の好きな曲。
めちゃめちゃにノリノリ(死語)な曲調、モンキーダンスが好きなのだが…

最近、やけに
「愛と勇気は言葉 感じられれば力」というフレーズが胸に響く。

そう…言葉ってさ、足を生やして、勝手に一人歩きするものだから。

自由とか、平和とか、社会とか、責任とか、win-winとか、
とにかく、色んな言葉が勝手に世の中で独り歩きして、
その言葉の持つ意味を「感じる」ことがなくなってきてるんじゃないか…
そんなことを、思うのであります。

とりとめもない抽象的な独り言になっちゃって悪いけど…
「愛」も「勇気」も、めいっぱい感じながら、僕は毎日を生きていたいです!!

posted by Riot at 12:50| Comment(13) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月12日

「勘違い」と「すれ違い」と"その結末"

こないだの記事「これは現実か、それとも空想か」の続き。
(ビジネスの師匠のメルマガのタイトルがあまりにも秀逸だったので、パクらせて頂きました)

僕らが感じていることは、もしかしたら「空想」とか「勘違い」とかかもしれない。

人はよく「自分の感じていることは正しい」という風に錯覚しやすいが、
同じ事実や出来事を見ても、事実は異なるのかもしれないし、
別の人はきっと別の感じ方、考え方をしている。
そこには、必ずズレが生じているのだ。

でも、人が感じていることの全ては、「所詮、妄想で、幻だ」と冷めた調子で言うつもりは毛頭ない。
空想、直観、閃き、妄想、幻といった、「個人の内的世界」は、
ときとして人に物凄いパワーとエネルギーをもたらすからだ。

例えば、恋愛。
人を好きになったときの「ビビッ」「ドキドキ」する感覚なんて、
冷めた言い方をしてしまえば、「気のせい」「勘違い」の産物ではないか。

相手のことを十分に知ったわけでもないのに、何で好きになれるのか?
相手がダメ男、嫌な女だと分かった後も、何で好きなままでいられるのか?

でも、よく分からないけど好きなものは好きだし、
好きになってしまったものは仕方ないんだ、みたいな。

勘違いなしに、恋愛は成り立たない(!)。
ああ、素晴らしき勘違い。
そこに合理的な説明を差し挟むのは、ときとして野暮なものだろう。

地動説を主張した、ガリレオ・ガリレイ。
万有引力を発見した、アイザック・ニュートン。
「空を飛ぶ」という人類の夢を初めて現実のものとした、ライト兄弟などなど…

人の中に湧き上がる「勘違い」には、物凄い創造的なエネルギーがあるのだ。
ああ、素晴らしき哉勘違い。

つまらなく思えることの多い世の中。
もっと、どんどん、人は勘違いをすべきなんじゃないか、と
僕は声を出して言いたいっ!!
さ、あなたも、レッツ勘違い!!


…と、ここまでで、言いたいことは半分。
勘違いは大いにすべきだが、せっかく勘違いをしたのなら、
もう一つ必ずしなけりゃならんことがある。



自分の中にある勘違い…
空想、直観、閃き、妄想、幻といった、「個人の内的世界」が、
実際の現実と比べて正しいのか、ズレていないのか、
冷静に、擦り合わせ、歩み寄りを行っていかなければならない。


勘違いを勘違いのままにしておくと、極めて残念な結果を引き起こすことが多い。

さっきの恋愛の例えで言うならば、

自分の中の「好き」を一方的に膨らませてしまうと、
実際に相手と接触してやりとりしないでいれば、ただの片思いで終わるし、
相手と接触してからも、自分の中の「好き」しか見えていないと、
いろんなことを見落としたり、誤解を引き起こしたりする。

ああ、恋は盲目なり。
勘違いをカンチガイのまま放っておくと、まさしく人は盲目になるのだ。

他にも、付き合ってて「相手は自分のことを全く分かってくれない!!」という
勘違いに囚われれば、深刻な喧嘩になるだろうし、
「相手も自分のことが好きで違いない」という勘違いを押し通せば、ストーカーに変貌したり、

恋愛ひとつとってみても、勘違いを勘違いのままにしておくことで
もたらされる悲劇は、枚挙に暇がない。

師匠は、メルマガでこう言っていた。
「勘違いはしても、すれ違いはするな」と。

これまでに歴史的な発見をしてきた科学者のように、
文明を、人間の生活を塗り替えてきた発明家のように、
人類の文化、生き方の理想を説いてきた宗教家や哲学者のように、

色んなことを感じ、考え、衝動のままにそれを表現したとしても、
現実と、事実と、すれ違ったままでは…
世の人々から「トンデモ」と後ろ指差して笑われるのがオチである。

分かりますか? 小島さん。
アナタのことですよ。

そして、小島露観の勘違いを信じ込む…という勘違いをしてしまい、
それを現実と擦り合わせることをせず、すれ違いのままにしてしまったおかげで、
僕らは、大なり小なり、色んな痛手を負ってきたわけだ。


勘違いは大いにすべきだし、勘違いこそが人生を豊かにする。
僕は、ザインを離れた今でもそう信じて疑わないけど、
勘違いを現実と擦り合わせることをしなければ、それこそトンデモナイことになるということも、
本当に骨身に沁みるくらいに知っている。

現実を見ること、実際を知ることは、勇気が要るし、
時として本当に辛いこともある。
それでも、勘違いが本当なのかどうか確かめる努力をしていかなければ、
その先、もっともっと辛い思いをすることになるのだ。

さっきの恋愛の例えで言えば、
相手をよく知ろうと努めること、
言いにくいことも含めてちゃんと話し合うこと、
その中で違和感が生じたのなら、そことキチッと向き合うことが必要なのだ。

どんどん勘違いはすべきだ。
そして、ありったけの勇気を出して、勘違いと現実のズレを見極め、
現実とすれ違わないように、ありったけの知恵を絞って勘違いを正していくのだ。

僕はそうしたいし、
あなたにもそうしてほしいと思っている。

posted by Riot at 21:03| Comment(2) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月06日

これは現実か、それとも空想か

ここ数日、ちょっと考えているのが「現実」と「空想」について。

占星術やカウンセリング、エナジーワークをネット上で展開したい僕は、
数ヶ月前から、ネットビジネスの、とある有料メルマガを愛読している。

そのメルマガで「リスク」と「現実」についての話があった。
大体、こんな話だった。

 僕等の考える「リスク」というものは、大抵のものは
 頭にある情報を、不安感で膨らませたものでしかない。
 そういうリスクは「現実」ではないのだから、あれこれ考えても仕方がない。

 リスクに関してもそうだが、僕らはよく、頭にあるもの、心にあるものを、
 いろんな感情で膨らませてしまい、それを「現実」と錯覚する。
 「リスク」だけじゃなくて、「メリット」「希望」なんかも
 じつは現実じゃなくて、単なる空想じゃないだろうか?

 だから、己を疑え。
 疑うことから、自制と思考が始まるのだ。


なんだか抽象的な内容だが…
要は、僕等人間という生き物は、なまじ頭が良くて、しかも感情を備えているから、
しばしば「自分の中で感じているもの」を「現実」とか「事実」とかと
カンチガイしてしまう、というわけだ。

このカンチガイは、何を生み出すかというと。

思考の放棄であったり、行動や判断の無意味な後回しであったり、
自分への言い訳だったり、まぁ色々と困ったものを生み出してくれちゃったりするわけだ。

例えば、資格をとりたい、そのために勉強をしなければならない。
でも、仕事で疲れてて勉強する気にはなれない。
そんな時…

「苦しい、疲れた、もうダメだ」という気分がムクムクと首をもたげ、
「無理したら身体を壊す」という理性とタッグを組んで、
「今日は無理だから、何もしないでゆっくり休もうか」と、安易に結論づけて、
自分に対して綺麗に言い訳してしまう。

このとき感じた「苦しい、無理だ」という気分は、本当に「無理」というサインなのか?
実は、限界はもっと高い場所にあって、まだ頑張れたんじゃないのか?

もう、何を書くか、予想がついてしまうだろうが…
地極産業の聖品の効果も、実のところ、これと似たようなものだと思う。

聖品の効果はとても主観的に感じられるものであり、
現実において、ハッキリと万人に同じように表れるものではない。
どんなに「効果があった」と感じられたとしても、
それは自分がそう感じているだけで、気のせいでしかないのかもしれないのだ。

たまたまあった出来事に、期待感を膨らませれば、
かの悪徳企業に都合の良い「現実」の皮を被った「空想」の出来上がり。

ちなみに、この手の空想が、時々現実にまで影響を及ぼすことがあって、
人はそれを「プラシーボ効果」と呼んでいるようである。


ともかく…
どうやら人間というやつは、思った以上に、こうした場面が多いらしい。

自分が膨らませたリスクへの恐怖や不安で、足元がすくんだり、

自分が膨らませたメリットや希望で、何もしなかったり、
はたまた、とんでもないところに足を踏み入れたりする。

かく言う僕も、しばしば「非現実的な空想」に引っ張られて
現実を見失うことがしょっちゅうだ(汗)
ここいらで自省しつつ…

あなたにも、少しばかりこのテーマについて考えて頂けたらな、と思う。


posted by Riot at 01:02| Comment(1) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月11日

親孝行

僕は、相当「親不孝」な人生を送ってきたという自覚がある。
せっかく現役合格した大学を辞め、
バンドマンになるはずが、どういうわけかカルトの一員となり、
その後もフラフラ生きている。

親としては「元気に生きてさえいれば良い」と思ってくれているのかもしれないが、
やはり「こんなはずじゃなかった」というのは心のどこかで
思っているんじゃないかな…と想像している。

親の信頼と期待を裏切り続けた人生。
なんてカッコ悪いんだろう、俺。


いつかは親孝行したい、絶対親孝行してやるんだ…と思っていたそんな時、
妹から電話で、こんなことを言われた。

「親もいつまでも元気でいるわけじゃないからさ、
 兄弟3人でお金を出し合って積み立てて、旅行をプレゼントしてあげようよ。
 こういうこと、今しかできないと思うから」

しっかりしてるな、妹よ。
僕は、諸手を挙げて賛成した。
すぐに弟にも連絡をとり、お金の積み立てが始まった。

それから約1年、つい先日。
そこそこお金が貯まったので、両親の行きたい場所を網羅した
バスツアーをプレゼントすることができた。

電話口で母は、相当驚いていた。
「悪いよ」と恐縮もしたが、すっごく喜んでくれた。

ようやく、親孝行らしい親孝行ができた。
兄弟3人とも、めちゃめちゃ喜んでいる。


クレオパトラの時に辞めなかったら…
それからもずっとザイン会員を辞めなかったら…

きっと「大義、親を滅す」なんて言葉を真に受けて、
どす黒い正義感を抱えながら親に金をせびり、
親孝行なんて考えなかっただろうな。

ザインを辞めて、本当に良かった。


次はどこに行ってもらおうか、どう喜んでもらおうか。
僕は、今後どういう親孝行ができるか、すごく楽しみにしている。


posted by Riot at 10:31| Comment(2) | 徒然語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このブログでは、SEX教団・ザインザイクス天業古代王朝シリウス核石・の、内情と実態を書き綴っております。
シリウスは、詐欺まがい・押し売りまがいの霊感商法、性の儀式、軍事訓練などを行っております。
シリウス核石のことを知りたい方以外にも、ザイン(シリウス)を辞めた方、
ザイン(シリウス)を辞めようと考えている方、ザイン(シリウス)を辞めた元会員の方々・現在もシリウスに在籍する社員・会員の方に
ご覧になっていただきたいブログです。